御由緒
延喜神名式諸本、「タキハラノ」と訓み、異訓なし。「瀧原」は、当宮の御鎮座伝承にみえる「大河之池原之國」(『倭姫命世記』)といふ地名に因むものであらう。
「天照大神遥宮」(『皇大御言儀式帳』・「大神遥宮」(『延喜大神宮式』)とも称される。また長暦二年(一〇三八)の 『内宮送官符』には「瀧原神宮」とあり、太政官符での神宮号の使用が注目される。
さらに近世期、当宮の御師は「瀧原大神宮」とも称してゐた(大宮町郷土史料館蔵、大麻札版本の刻字)。土地の人は「野後さん」ともいふ。野後もまた近世以来の当地の地名である。皇大神宮別宮。
日本書紀や『儀式帳』にみえる神宮創祀傅承には当社のことはみえないが、『倭姫命世記』(垂仁天温)二十五『年三月條に次のやうに記されてゐる。
すなはち倭姫命は、大神の御鎮座地を求めて伊蘇宮からさらに川を遡り、相鹿瀬を越えて、眞名胡神に迎へられるがその眞名胡神御瀬に至りて御瀬社を造立する。
そして「従其處幸行、美治到給、眞名胡神、国名何問給、大河之瀧原国白、其處宇太之大宗禰奈為、荒草令苅掃、宮造令坐」とあり、ここにみえる宮がすなわち当宮という。
しかし続けて「此地は、皇大伸之欲給地には不有悟給へ」とあり、再び川を下って處々を巡幸し、翌二十六体十月、五十鈴河上に奉遷されたと記している。
すなはち、当宮は倭姫命巡幸伝承に因む社である。
『式内社調査報告』より引用
御祭神
《主》天照坐皇大御神御魂
『儀式帳』には「御形鏡坐」とある。
|