御由緒 大字国江字北浦に鎮座する社口社の創因に付いて明確なる創始を知る事が出来得ないが、当村は旧上野荘の一郷として元暦年間(1184)、
既に集落をなせる土地であったこと、又我が国神道の最も古いと言われて居る造形信仰の石上神を中心として崇敬されていたこと、等より考へても此の土地の古悠さと、
産業信仰の根強さが、うかがわされるのである
慶安3、4年(1605、1606)永覚新郷、最初の出郷以来寛文年間(1661〜1672)、国江新郷・山国江等の分離と、其の間、数度の水害に見舞われ、
当時は68戸もあった村が宝暦8年の水害後に僅かに10戸と成ったと言う数字を見ても如何に災地の住民が苦境に立って居られたかが想像される。
寛文4年(1664)以後享保年間迄約70年間仮社殿のまま崇敬されしが、享保19年(1734)社司、下村式部信種の懇望に依って庄屋彦左衛門・組頭七左衛門の発企となり、
旧社殿は山国江の地に譲り新しく改築された。是より山国江の地にも本郷と同じく社口社の創祀となり、以後祭事も別に行われる様になった。
然るに改築以後、宝暦8年5月25日の大洪水によって殆ど皆無に等しい被災、漂流に遇ひ、社殿は勿論、
民家と共に漂流の悲運に遭遇したのである。此の被災に依って高阜に移住する者多く僅かに留まる者10戸なりしという。
それより民家の減少によって社祠の改修も機を熟せざりしが、寛政7年(1795)に至り社司下村式部信次の懇請によって庄屋利八、
発企となり拝殿の改築が行われ漸くにして旧状に復し社威を整ふるに至った。□して本祠は明治初年頃、腐朽甚だしく明治中期(1887年頃)改築が行われ現在に至っている。
灰都に巨星が生れ、災地に悪道なしと、古人の言いし如く、豊かな富郷と水道完備の文化部落として今日の楽土国江を礎かれしのも、
幾多祖先が血と汗と涙を以ってよく此の災地を克服せられし所以と同時に、幾百年守り続けて居られる氏神社口社の守護に外ならんか。
『上郷風土記』(上郷地区コミュニティ会議 上郷風土記編集委員会、昭和63年3月)より
御祭神 《主》猿田彦命
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