御由緒
社伝によれば、垂仁天皇の御世、倭姫命が天照大御神を奉じて三河路巡幸の際この地で休息されたその跡地に天照大御神を創祀した古社なり、という弘化二年(一八四五)は社殿再建の時狂句額を社蔵する。
明治五年十月十二日村社に列し、同工十六年十二月社殿を再建し、同四十三年一月七日字高崎十九番地の諏訪社と宇字小山四十四番地の社口社を合祀す、同四十四年四月九日字柿木田四十四番地神明社を合祀した。
同四十四年十二月二十七日供進指定をうけた。昭和五十四年二月、社務所を改築する。平成二年十月社標、石鳥居、玉垣、石段を新設する。
例祭日 十月十八日 (愛知県神社名鑑より)
神明宮創立は古老の口碑に曰く 人皇第11代垂仁天皇の朝、皇女倭姫命天照大御神を奉し給ひて、三河路ご巡幸の節当所にご休息あり、その御蹟に天照大御神を奉斉せし古社なりとつたふ。
爾来千数百年治乱興亡世を異にし社運亦その盛衰同じからざりき。永禄天正年中、高力城主高力安長、清長、正長代々当社に参拝して開運を祈願し崇敬せり。
清長従五位下を授けられ、武蔵の国岩槻城を賜り二万石を食む。明治5年村社に列せらる、26年本殿並びに雨覆の再建をおこなひ、35年宝庫並びに社務所を新築せり、
42年高崎諏訪社(祭神建御名方命)小山、社口社、(祭神猿田彦命)を合祀せり、44年柿木神明社(祭神伊雑大神豊受皇大神)を合祀せり、
同年神饌幣帛料供進神社に指定せらる、昭和54年社務所改築せり、昭和63年社号標、鳥居、玉垣を新築せり、昭和元年氏子数90戸、平成元年氏子数214戸。
御祭神
《主》天照大御神,《合》建御名方命,猿田彦命,伊雑大神,豊受皇大神,
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