御由緒
天武天皇の朱鳥元年(689)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられています。是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄14年〜延享4)神主 牧野播磨守英治筆録のみでなく、
奈良朝末期天応元年(781)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯けます。
ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所でその東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、
妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました寛平2年(890)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、
その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起としてその故地に創祀された。
その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約596年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当って、
今の乙子山の地にご遷座したもので現在では当社の御旅所として、礼祭日には神輿渡御で巡幸しその折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。
当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。
御祭神
《主》日本武尊,《配》宮簀媛命,建稲種命
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