御由緒
『神名帳』には、「久々都比賣(クヽツヒメ)神社」、『大神宮式』には、「久具都比賣社」、『齋宮式』には、「久久都比女社」と記してゐる。又、『皇大神宮儀式帳』には、「久典神社」とあり、
『二宮管社沿革考』『神名秘書』には、「久具都比賣社」、『倭姫命世記』には、「久求社」、『攝末来古今次第』『御言別言以下攝末社由緒取調書』等に、「久典都比資綿飴」と見える。
『大柿言儀式解』では、「久典は玖寓とよむべし、(中略)地名を飴胱とす。(中略)久具の名義思得ず」とある。
『皇大神宮儀式帳』に、「倭姫内親王定祝」と記されてゐる。
又、『倭延命世記』に、倭延命が天照大御神を戴奉りて幸行し、この年飯野より伊蘇、猍田(現玉城町)、坂手(同上)を経て、
現在の瀧原宮より宮川を遡り行く時、久求の地に到り、久求都彦の白す久求小野に久求社を定めたのが当社のことである。とある。
『式内社調査報告』より引用
御祭神
大水上神の御子 久具都比女命、久具都比古命、
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