御由緒
御祭神の彦五瀬命は大一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衛坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竃山の地に葬られ給う。
今の社地は即ちその遺跡で、延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡、竃山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社であり、天正年間まで社領八町八段を有したと伝えられている。
往古は社殿も宏大にして現社地遥か東南山麓に鎮座し給うたが、戦乱の世を経て社頭衰微し、徳川氏の入国後、社殿を再興した。
明治18年官幣中社に列せられ、大正4年官幣大社に昇格、昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以って社殿を造営し、境内を拡張して現在に至っている。
寛政6年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて、をたけびの かみよのみこゑ おもほへて あらしはげしき かまやまのまつ、と詠んだが、竃山の岩根に鎮ります神霊は、
日本の国の行手を永久に護り給い、導き給うことと拝し奉る。
御祭神
彦五瀬命
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