御由緒
宗定南屋敷に蒼稲魂命を奉祀する稲荷社は、明治初年まで同村字稲荷の地にあり、この地往時は稲荷山といって松柏繁る神域であったが氏神をしては人跡も遠く、
不便もあり村の総意に依って天王社の在った現在の南屋敷の地に合祀されたのである。
この地は矢作川堤上にて敷地も狭く、当時は旧拝殿の中に合祀されていたが大正の初年、氏子民の労仕によって堤上、
土砂の盛上を行い神域の拡張と相伴って大正15年(1926)本殿の新築を初め石鳥居の再基が行われた。この地は幕政当時より矢作川堤800間、
小堤150間の責任管理の土地であったため風水の都度住民の恐怖は実に大きなものがあり、水難守護の念より川岸である現在の地に祭祀されたのである。
『三河縁記地誌』に「宗定古城の西南の地に阿部稲荷といって古祠あり初午には人出も多くその年の豊凶を占えり。」とあり。又明治10年(1877)移転当時の旧祠に
大永四年神谷宗弘寄進という棟札のあったことにより考察しても在城の当時既に城辺に祭祀されてあったことが立証される。
宗定古城は、明応年間(1492〜1500)阿部忠政の所領であったが、大永年間(1521〜1527)、神谷氏の所領となり、神谷宗定が居城された。神谷氏は阿弥陀堂村の
神谷高正6代の曾孫であり清和源氏の流れを汲む後裔として現在もこの地方に一族が多く、先年神谷氏450回忌を菩提寺である幸福寺で行われたそうである。
稲荷社の信仰については既に述べたる如く狐が伴うことより、つかわしめ(神使)思想より 崇敬されたのであって念願が叶うということより商売繁昌、
開運の神として信仰者が多いのである。
阿部氏を祖先とする宗定に稲荷社のあることにより阿部氏には往時より狐に浅からぬ因縁があることを1、2 拾ってみよう。
天喜5年(1057)11月阿部貞任は、源頼義と鳥海(とりみ) の激戦に一矢で3人を射抜き頼義の大軍を破ったという。弓の名人であったが矢を放つ時三ッ峯の山上に在ます
稲荷大明神(今の伏見稲荷)を念じその神通に依って思うまま的中したといい、一代の守神として信仰されたという。又これは史実を劇作化した話ではあるが、
『蘆屋道満大内鑑』の中にある阿部保名の妻、葛の葉は狐でありその子、阿部清明は狐を母として育っている。あの非凡ならざる通力いわゆる観察力は占道の開山として
陰陽学を著している。
こうした史実を繙く時、阿部氏と稲荷社とは何かつながりのありそうにも思われるのであって、この村に稲荷社のあるのもまた、偶然ともいえないであろう。
『上郷風土記』(上郷地区コミュニティ会議 上郷風土記編集委員会、昭和63年3月)より
御祭神 《主》蒼稲魂命,火産霊命,素盞嗚命,猿田彦命,天照大神
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