御由緒
大神神社摂社檜原神社は、天照大神(当社では天照大神若御魂神と申し上げ三ッ鳥居の中にある神籬に奉齋)を、末社豊鍬入姫宮(向って左の神殿)は崇神天皇の皇女豊鍬入姫命をお祀りいたして居ります。
皇祖 天照大神(神璽の八咫鏡)と草薙剣は大神神社の御神体山三輪山の麓に磯城瑞垣宮(しきみずがきのみや)を営まれた第十代崇神天皇の御代まで天照大神の宝鏡奉斎の御神勅の随に宮中(天皇の宮殿)にて「同床共殿」にてお祀りせられて居りました。
崇神天皇の御代のはじめ、国内に疫病多く国民の大半に及び、また流離(さすらい)背叛する者あり国情真に容易ならぬ状勢となり、天皇は大変憂慮せられ、朝夕に神祇に只管(ひたすら)ご祈念されましたが、国情は益々由々しくなる様相に、
天皇はついに、神の 勢 (御神威)を畏れられ、御即位六年はじめて皇女豊鍬入姫命(初代齋王・御杖代)に神璽を託されて、「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りせられました。
その神蹟が三輪山の北麓にある檜原神社の地であります。 豊鍬入姫命は大神の御杖代としてこの地に三十三年間朝夕奉仕せられました。更に大神の御心に叶う相応しい鎮座地を求めて、
丹波の吉佐宮、大和の伊豆加志本宮、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮の四箇所を経て、この檜原の地に戻って来られ、 この期間が二十一年間でありました。
そして第十一代垂仁天皇の御代、大神は豊鍬入姫命より御杖代をご継承された倭姫命(垂仁天皇皇女)により伊勢の五十鈴の川上(現在の伊勢神宮内宮)に御遷幸の後も、
この御蹟を尊崇し檜原神社として大神を引続きお祀りいたして参りました。よって此の地を「元伊勢」と今に伝えております。桧原神社は又日原社とも称し、古来社頭の規模など、本社大神神社に同じく、
禁足地とし三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。萬葉集には「三輪の檜原」とうたわれ、山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は、
大和国中を一望にする景勝の地であり麓の大字茅原、芝(旧岩田村)には「笠縫」の古称があり、また崇神紀の「神浅茅原(かんあさちはら)」に因む「茅原」の地名があります。
大字箸中は皇女豊鍬入婿命の御墓と伝える「ホケノ山(古鏡出土)」又西方の旧県道には、当社の道しるべ「環緒塚(おだまきづか):伊勢学の大家、神宮禰宜御巫清直(みかんなぎきよなお)の書と伝える」があります。
御祭神
御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみわかみたまのかみ) 配祀 伊弉諾尊 伊弉冊尊
年間の祭典
二月十五日 午前十時 桧原神社 例祭 神楽 磯城の舞奉奏
十一月 五日 午前十時 豊搬入姫宮 例祭 神楽 磯城の舞奉奏
毎月十五日 檜原神社 月次祭
毎月 五日 豊搬入姫宮 月次祭
末社
豊鍬入姫宮 御祭神 豊鍬入姫命
(崇神天王皇女 初代齋王)
昭和六十一年十一月五日 御鎮齋
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