御由緒
社傳に、正治元年(西暦1199)武士清原某、京を去り鎌倉に赴き幕府に仕へんとし、鎌倉街道沿いの此の地に来りし時に、
ョ朝天壽にて逝去すと聞き、痛歎憤慨して悩み、終に素志を飜して弓矢を捨て、永く此の地に留まり地方人民を統率せんと欲し、
草蘆を営み、日頃敬虔せる八幡宮を池畔に鎮祭し朝夕其の禮を怠らず、困り来り住する者竟に一部落を爲すに至れり。是れ今の八幡社勧請のいわれにして亦中田の起源たり。降りて天正の頃、織田信長の家臣石田又助此の地に居宅を構へ、専ら殖産農稼を奨励し一郷を率いて益々はってんせしめたり、その後當神社奉斎の地が適せざるを惟い、寛文12年(西暦1672)8月現在地に社殿を移転改築し中田村の産土神として崇敬したり。明治5年(西暦1872)村社に列格し同42年(西暦1909)神饌幣帛料共進神社に指定せらる。
御祭神 《主》誉田別尊,気長足姫尊
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