由緒 | 住吉大神は神代の昔、伊弉諾尊が、筑紫の日向の小戸の橘のAWAGI原で禊除をされ、黄泉国の穢れをお清めになった時、出現された神であります。仲哀天皇の9年、神功皇后さまが新羅国を征討されるため、自ら神主となって斎宮に入り、天神地祇に戦勝をご祈願になった時、再びあらわれて、「吾和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん」とお教えになりました。皇后さまはその神託のまにまに進軍し、ご神助のもと、刃に血ぬらさずして新羅をご征討、続いて高麗、百済の両国をも降伏させて凱旋されました。凱旋ののち、「吾荒魂を穴戸の山田邑(現在地)に祀れ」との御神誨を仰ぎ、神恩奉謝のため、この地に祠を立てて、住吉三神の荒魂をお祀りになり、穴戸直の祖践立を神主として奉仕させられました。これが住吉神社の起こりであります。下って醍醐天皇の延喜の御代、式内社として名神大社に列し、続いて長門国一の宮と仰がれ明治の御代に及び、同4年に国幣中社に列格、同44(年官幣中社にご昇格になりました。戦後は制度が改まり、神社本庁所属の別表神社として、そのご神威はいよいよ高く、ご神徳はますます赫々で、お祓の神、産業興降、水陸交通の神、開運長寿の神、また文道風月の神として霊験いちじるしく、上下一般の広く深い崇敬をおうけになっております。海遠く月をも西にあふぎつつ 筒の男の神の昔をぞ思ふ(藤原季種)うき雲のおひ風まちて天の原 神代に照らせ日のひかりみむ (今川貞世)やはらげる光もらすなしらなみの 檍原にいでし月影( 同 )以上の信仰は神代より上代中世を通じて、現在に至るまで、絶えることなく、強く生き続けております。 |
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