由緒 | 当河内神社は、安徳天皇御世養和2年9月6日錦川大洪水の際、四馬神、添谷、小川、三ケ村の川合宮ノ串にて、添谷村三浦某なる者、漁り中一束の神弊川上より来たり。その網にかかりたるを以て、これを数度投棄せしも尚掛り来るを以て、之を拾い上げ置き帰りたるに、その夜神告ありて日く。「これより南に濱田某と云う者あり、其の人と共に吾を奉斎せよ。」と茲に驚いて濱田某を尋ねんとして、三ケ村の落合の処に至りたるに不思議にも濱田某に出合せり。各々語りて吾亦神告を受く「吾れは、都濃郡大向村の鎮守、二俣神社の神霊なるも洪水の為流れ今此の地の石の上にあり。これよりこの北の方、三浦某と協議して三ケ村落合の潔き所に奉斎せよ。」と、依って驚き参上の途なりと、茲に両名共恐縮して直ちに御神弊を石上に安置して、二俣神社を尋ねたるに神殿洪水の為流失しあり。よって両名は神告をかしこみ里人と共に三ケ村の落合現今の所に奉斎せしものなり。よって当村の産土神として崇め、その神弊を置きたる地を宮ノ串と名づけ、その石に注連を曳きたるを以て、大字を四馬神と名づけたりと云う。其の後神殿弊殿等破損により、慶応2年8月再建し、明治6年社格を郷社に列せられる。 |
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