由緒 | 当神社に鎮まります御祭神柿本人麻呂命は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人の後胤小野氏族の分かれである柿本族の支族が石見国小野郷の地へ小野族の縁戚をたよって移住、小野の地に御生まれになりました。青年時代、都に上られ、持統天皇文武天皇の両朝に宮廷歌人として仕えられました。後生国石見国の役人として赴任なされました。そして鴨山の岩根し枕ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむの歌を残して逝去されました。後国司が勅命を奉じて、終焉地たる鴨島の地に社殿を建立したのが起源であります。万寿3年の断層地震による大津波のため社殿と島とが海中に陥没したと伝えられています。この時人麻呂公の尊像は松崎に漂着なされたのでこの地に社殿を再建したのでありますが、延宝九年、亀井藩主により現在の鴨山に移転再建されました。当社は全国柿本神社の本社として歴代皇室の御崇敬厚く、中御門天皇の享保八年、柿本人麻呂公の1000年祭にあたり特に正一位柿本大明神の神階と、神位を宣下せられました。更に宣命、位記、太政官符を御下されるにあたり畏くも勅使参向下向の沙汰があるなど、和歌の道に於いて特に当社を尊ばれた御聖旨によるものであります。人麻呂公の1000年祭に、霊元上皇御宸筆の御製以下50首の短冊を御法楽として御奉納され国家安全、歌道繁栄の御祈祷を申し渡されるなど皇室の勅願所と仰がれました。 |
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