由緒 | 当社の創建年月は不祥であるが、元禄4年編纂の「作陽誌」には「車戸神社在下和村此村氏神也、在一の茅岸頭近渉於下鍛冶屋云々」とある。 上代においては植杉川の上流に鎮座していたが何時の時代かに里宮として現在地に移され、旧跡地は今では「久那止荒魂神社」が祀られている。 「三代実録」には「貞観6年(864))8月己巳美作国従五位下久止神授従五位上」とあり、又神祇志料には美作国八の宮とある式内社で、古くは久刀神社、久那止神社、或いは車戸大明神と称していた。 明治44年12月村内各神社を合祀、大正2年3月村名を以て社号となし中和神社と改称今日に至っている。 尚本殿中央に奉斎されている久那止神の、内宝殿には宝暦10年(1760)3月備前国国府湊より久世まで水上にて運んだことが墨書されている。 古くから「くるまどさん」の愛称で親しまれ、牛馬の守護神として崇敬され、今尚山陰方面からの講参りが連綿として今日まで続いている。棟札によれば現在の本殿は明治4年の建築である。 主祭神の久那止神は伊邪那岐命が、亡くなられた妻(伊邪那美命)を慕い給い死人の国を訪れられた時に、多数の魔神に追われて急ぎ逃げ帰られた際に黄泉津平坂に於いて「ここよりこちらには来るなかれ」と、大きな岩にて道を塞いだ古事があり、この時の岩をつかさどった神が即ち久那止神である。古来より牛馬守護の神としてはもとより、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 |
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