由緒 | 多聞院日記に「天川開山ハ役行者・・・・マエ立チノ天女ハ高野大清僧都コレヲ作ラシメ給フ」・・・・(芸能と信仰の里「天川」)というのがあります。 これは室町期の傑僧多聞院英俊の天河詣での記録です。 天河大弁財天社の草創はこの日記のような飛鳥時代の昔にさかのぼります。龍、水分の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者によってなされたことは周知のことです。その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峯弥山に大峯の鎮守として祀られたのが天河大弁財天の創りです。その後うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壷中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立されついで吉野総社、(吉野町史)としての社格も確立しました。更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話はすでに明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。天河社には大師が唐から持ち帰られた秘教法具「五鈷鈴」やさきの多聞院日記で紹介された「大師筆小法花経」又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字勧碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳そかに吾々の心を魅了します。冒頭多聞院英俊の言う「高野大清僧都」とは弘法大師のことなのです。天河大弁財天社の由緒の中で天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所・・・(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。通常唯三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参詣がありました。このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖宝解説など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参篭されました。そして峯中の大秘法「柱源神法」にもとづく修法の数々が確立されたのです。まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」と言われます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年7月16日三宝院高演によって修せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠帰依の史実を裏書きするものです。又琵琶山の底つ磬根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに日本弁財天勧請の創めとして掲載されています。 これは天河大弁財天が本邦弁財天の覚母であるということなのです。そしてその加持法力は広大無辺15の徳によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。 *天河社と能* 弁財天を別名「妙音天」と申し上げます。天河では弁財天拝殿と能舞台を含めて妙音院と申し上げるのはこのためです。これは弁財天が芸能の神様として早くから尊崇されたためです。ずっと昔悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに田楽が行なわれていました。特に天河社には弁財天八楽又は弥山八面とも申しまして利生あらたかな楽舞が伝っておりました。夙に平和の神、芸道の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男十郎元雅が心中に期することを願って能「唐船」を奉納し尉の面を寄進しました。平和の神、芸能の神に寄せる期待が如何に大きかったかをしのばせます。以来天河社では社家座の成立や、喜多六平太による謡曲喜多流の創設など芸能とのかかわりを深め全国各地の祭祀にかかわってきました。しかし時代の推移と共に盛衰を繰返し、明治の中頃以降は永く廃絶の憂目にさらされていました。しかし、幸いにも戦後昭和23年社家有志によって復興を見るに至り以来能楽や狂言の奉納が行なわれるようになりました。特に昭和45年観世流京都の片山博太郎先生能「弱法師」が奉納され以来、毎年例大祭には京都観世会を初め幾多諸流の名士が芸能の粋を奉納するようになりました。 |
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