由緒 | 当社の創祀については、詳らかにし難い。平安時代には『延喜式』に小社として波太伎神社の名が見られる。社名については、久保田博士が、旗にちなんだ伝承があったかも知れないが祭神を仁徳天皇とすることを含め、その由来は明白ではないとされている通り、史料から窺うことは 難しい。往古は、坂ノ下・東条・土橋・西条・山神・印代・大石等七郷の郷社であったが、中古以降は山神・西条・東条・印代・土橋 の五ケ郷の惣社とされた。中世以来三ノ宮といいならわされている。大正九年(一五八一)織田信長の伊賀侵攻の際社殿悉く焼失したが、同年九月には 再興されていることが、現存する棟札等により判る。江戸時代には、近郷五ケ郷を中心に惣産土社として人々の崇敬をうけた。明治四○年には府中村大字東条鎮座 村社薦枕神社 西条鎮座村社貴船神社 山神鎮座 村社寄建神社 印代鎮座 村社諏訪神社 上橋鎮座 無格社宇都可神社を波太岐神社境内に移転のうえ合祀して、式内社村社宇都可神社としょうし、同時に、各大字の無格社及び各神社境内社の津島神社・秋葉神社・若宮宇都可神社・塞神社・諏訪神社・浅間神社・山神社・愛宕神社・波太岐神社を波太岐神社境内に移転合祀し、村名をとり無格社府中神社と称した。特記事項 一〇月一八目報賽角力(恒例)元禄年間の伊賀名所句集に三の宮「長き勢神もおかしと負けすもう」と詠まれている。村一番の大男が小さい男に負ける事が豊作の願解として神事相撲としての伊賀の国唯一の神事である。明治九年迄は旧丸桂村、三田村、小田村、府中川北(ツゲ川以北の府中村)の総社であった。 |
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