由緒 | 『員弁郡郷土資料』に、「郷社猪名部神社は、本郡に於ける大社にして本郡幣帛料献進之社なり、毎年四月八・九日を 以て祭典を挙行す、流鏑馬式神事あり、参拝観覧人堵の如し、当社は『延喜式神名帳』に伊勢員弁郡猪名部神社とあるは此の社にして、三代実録貞観元年(八五九)五月の条にも此の記録あり、(以下略)」とあり、明治三九年の『神社明細帳』に、「『延喜 式神名帳』に、伊勢国員弁郡猪名部神社とあるは、即ち此社にして三代実録に、貞観元年(八五九)五月二六日辛巳授伊勢国従五位下員弁大神正五位下、同八年閏三月一三日戊午授伊勢国正五位下員弁大神従四位下、同一五年九月九日辛未掌侍従五位上春澄朝臣高子奉弊氏神向伊勢国勅賜稲一五百束以為行旅之資とある。春澄の氏神是なり、春澄高子後洽子と改名あり。典侍は参議従三位春澄朝臣善繩卿の長女なり、善縄卿は 伊勢国員弁郡の人にて員弁少領猪名部造財麿の男周防大目豊雄の男なり。天長の初年 達官後左京に移住し、同五年猪奈部造の姓を改め春澄宿祢、後に朝臣を陽われり、されば春澄朝臣の本姓猪奈部造にて員弁郡の土着なりしなり。此に依て此を見れば員弁大神社頭に接して高塚と呼ぶ陸墓の大なるものあり、其余若干の塚境内に散在す。是員弁大神を氏神と称し、末裔の春澄氏其祭祀を奉じ来りしものならん。(中略)村邑を大社と云うも此大神の社あるより唱ふるなるべし」とある。四日市の善戦寺の仏像の胎内から出た藤原実重の供養願文に、「文暦二年(一二三五)五月二日、大社の大明神へ紙一帳はな米三升まいらす」とあり鎌倉時代の初めすでに近郷に有名な社であった。
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