由緒 | 『日本書紀』景行天皇40年条、『延喜式』諸陵寮が記す日本武尊の御陵とされる「能褒野墓」について、明治12年10月、宮内省は「鈴鹿郡川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名、王塚)をもってこれと確定した。凡そ功績著き方々の御陵の辺には概ね御社を建ててその御霊を斎き祀るを常とすとして、明治16年12月、神宮斎主久邇宮朝彦親王より「能褒野神社」と社號の選定があり、次いでこの事を聞食された有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮より金幣が寄せられた。翌明治17年3月、神社創立の許可を得て社殿境内の新設に着手した。明治28年10月、その業ようやく終わり、神宮斎主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代並びに金幣を頂戴して御鎮座祭が催行された 明治38年11月、日露の役終わり、陛下、戦勝の御親告のため神宮へ行幸の際、勅使を御陵へ差遣わされ、同勅使は当社へも参拝、玉串を奉納され、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉を賜った。 明治41年、延喜式内社である縣主神社、那久志里神社、志婆加支神社はじめ村内の40余社を合祀し、明治43年11月、神宮司廰より皇大神宮撤下の御用材を頂戴して翌明治44年、宮柱は太く、千木は高々に本殿が神々しく築き改められた。 大正13年、能褒野保勝会が組織され、翌大正14年6月に縣社へ昇格した。同年10月、その祝祭催行の折、秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、東伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮より「御鏡餅料」を賜り、三重縣知事以下200余名の参列を得て、当社初代宮司、伊藤忠孝以下18名の祭官にて荘厳なる祭儀が執り行われたと記録されている。 大正15年5月、能褒野保勝会が亀山駅前に大鳥居建設。当社に御縁故深き久邇宮邦彦王殿下より能褒野神社の「御社號書」が寄せられ、これを扁額として掲げ奉り今日に至っている。 当社の神紋は「三樫葉」である。 |
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