由緒 | 平野庸修の撰にかかる「播磨鏡」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛命を報齋し」とあるが如く、西歴元年前後と説いている。其後、聖武天皇の御代天平5年(733)吉備真備公に勅して、廣峯山に大社殿を造営、新羅国明神と稱し、牛頭天王と名付けられたと述べている。「峯相ノ記」に「播州峯相山鶏足寺(姫路市石倉西脇廃寺)参詣ス」と書き初めて「広峯山ノ事、利生揚焉ニ賞罰厳重ナル間、自国他国歩ヲ運テ崇敬スル事、熊野御嶽ニモヲトラズ万人道ヲアラソイテ参詣ス、結縁の為ニ是モ一度詣テ候之」と広く崇敬されている事を記し、次に吉備公が広峯の神を崇め奉り、牛頭天王稱した経緯を次の様に記している。元正天皇御宇霊亀2年、吉備大臣入唐ス。在唐18年・所学十三道・殊に陰陽を極芸セリ・聖武天皇御宇天平五年帰朝云々・吉備公於当山奉崇牛頭天王也。年数ヲ歴テ平安城東方守護ノ為ス祇園荒町ニ勧請シ奉ル当社ヲ以テ本社ト為ス也」とあり。吉備真備公は永い外国留学の末帰朝したのであるが、その修学の内、陰陽暦学を世に広めたいと考え、唐ノ国の暦書にはその国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、彼の国の故事を取り入れ素盞嗚尊を牛頭天王・天道神とし奇稲田媛命を頗梨・采女・歳徳神とし八王子の神を八将神などと配して日本暦の歴神とし、薬師如来さえ立て五節或は年中の神事。佛事も法例としたもので、「こよみ」は現代の慶弔建築等に重要されるもので当時中国文化を初めて取り入れた公が、広峯社の祭神を歴神とした事で今迄も農耕を中心とする国民の生産として崇める上に生活指針とする歴学の根源の社とされたので、生産の神の上に建築方位方崇除の神として、又、牛頭天王としての故事による病気、海陸交通厄難除の神として尚一層の広範囲の庶民の信仰を亨けたものと考えられる。又、神威として後白河法皇の御撰による「梁塵秘抄」に、関より西なる軍神として美作の中山、安芸の厳島、備中の吉備津、播磨の廣峯が挙げられ、矢野信景の「牛頭天王辨」に廣峯(播州)祇園(京師)津島(尾張)大宝牛頭(近江)と延喜以前にあるも式撰之日之を神名帳に載せずとあり近世では、広峯・祇園・津島を日本三大天王と稱されている。斯くの如く歴史と伝統とを保持し国の重文社殿を持つ広峯社は当地方一円の誇りであり、牛頭天王総本社として自他共に認められ、皇室国家の疵護もなく唯、大衆の崇敬を得て維持されて来た神社は全国でも少ないと思われる。当社は、京都元官幣大社八坂神社(祇園観慶寺感神院)と本社・末社の争いを永い間続けた歴史を持ち、現今では、天下の祇園社と本・末の争いをした事実は、当社の昔日の人民に支えられた繁栄を伺えるものであるが、永仁元年(1293)に大火に罹り社殿をはじめ総てを鳥有に帰したのでわずかに残る古文書の一書、鎌倉将軍(源實朝)御教書に「播磨国広峯社者 祇園本社也云々、自今後可停止守護使乱入之状、依鎌倉殿執達如件」建保4年8月29日(1216)信濃守(行光)この文章に続き貞応2年(1223)北条義時下知状にも祇園本社とある。官社に列せられた祇園社に対し、当広峯社を祇園本社と認めた事は重大である。室町時代、浪々に身で広峯社を信仰する黒田重隆夫妻と子息兵庫助夫妻(その若い妻には黒田官兵衛孝高がみごもっていたのである)が、或る日参詣し、当社神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。 |
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