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神社ID/コード48120 画像収集中
神社名/通称三嶋田神社
(フリガナ)みしまだじんじゃ
郵便番号現鎮座地京都府
鎮座地調査年平成5年当時鎮座地京都府京丹後市久美浜町金谷今ゴ田791
氏子地域
電話番号FAX携帯電話
主な祭典祭典日
旧社格式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館要助勤(月日)
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神《主》大山祇命フリガナ
御神徳
由緒山下仙一郎氏編の『三嶋田神社由緒』に「往古川上谷に三ヶ所の嶋あり、その一は武漁嶋(海士付近)、その二は婦嶋(島)、その三は生島(金谷)なり。人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。而して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと國名風土記に見えたり」とある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。須郎(須良)=(須田)と三嶋田神社は数百メートル離れて向き合っている。當社の別當として神宮寺があった。神社の東一町の地にジンゴ(神宮)の森がある。元境内にあり明治維新後境外に移された石佛の背面に「永享12年庚申6月19日、神宮寺六十六部供養-源貞總」と刻まれている。永享12年は1440年で施主源貞總は當時の畑(金谷と同一)城主である。神宮寺は須田村大雲寺の末寺であり、『天龍山大雲寺記録』には「當寺末寺三ヶ寺有、一ハ猪ヶ嶋神宮寺トテ三嶋明神ノウラニアリ」とある。神宮寺は廃絶して字海士の寳珠寺に合併したと傳へている。現に金谷・畑の兩部落に於いて10数戸の寳珠寺檀家があるが、確證はない。暦應元年(1338)戦功により足利尊氏から1萬餘石を與へられ、畑村(金谷・畑はもと同一の大字であった)に居城をかまへた野村氏は、天正10年(1582)豊臣秀吉のために滅亡するまで三嶋田神社を崇敬した。野村氏は畑に居城を構へるや荒廃していた大雲寺を再興し、二百石の荘園を寄付している。大雲寺の末寺である神宮寺も野村氏との関係が考えられる。享和3年(1803)の金谷村の記録によれば、當社はもと十ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・新庄・品田・市場・出角・芦原)の氏神であったが、その後七ヶ村(市野々・布袋野・畑・金谷・須田・市場・出角)の氏神となり、享和3年故あって分離し、現在は畑・金谷・須田三部落の氏神となっている。延寶6年(1678)2月再建の棟札、文政12年(1829)再建の棟札がある。大正2年10月神饌幣帛科供進神社として指定される。昭和8年10月21日郷社に昇格(『熊野郡誌』)。
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