由緒 | 当神社は元伊勢神宮の御園(神園)であった、清洲城下の朝日郷に鎮座せられたが、慶長16年夏名古屋城の築城の際、清洲城下の士民が移転するに伴い当社も亦現在地(名古屋城本丸の真南・碁盤割りの南端)へ遷座された。以来、清洲越士民の崇敬の中心となり社頭年共に賑わい、これが現在の広小路発展の基となった。明治4年郷社に列格せられそれまで 広小路神明宮とよんだのを由緒に基づいて朝日神社と改称した。そして栄町を始め20ケ町の産土神(総鎮守)として参拝者が絶えず、昭和10年の県の資料に依れば県下第四番に位いする。不幸にして先の戦火により社殿その他を悉く烏有に帰したが幸いにも御霊代(御神代)は防火蔵に避難し、一部の宝物と共にご安泰であった。その後、氏子崇敬者の熱意により復興会が結成され、昭和28年7月御本殿、祭文殿、拝殿を始め末社五社が再建された。次いで境内の整備に伴い昭和33年7月稲荷社、公孫樹龍神社の2社が再建されて社殿の復興が完成した。昭和54年10月には斎館及び職舎(鉄筋コンクリート二階、一部三階)が竣工し、大祭を始め年中行事、氏子総代会の会合等の用に供することが出来るようになった。昭和61年10月、天皇陛下御在位六十年奉祝記念行事として、御本殿、祭文殿、拝殿を移築嵩上、末社5社の再建し、拝殿前広場を拡充し併せて境内の整備を行い、神輿庫も建て名実共に都心に相応しい社頭となつた。 |
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