由緒 | 人皇第七十代後冷泉天皇の康平6年正月18日、鎮守府将軍源頼義が神恩に酬いるため当地に勧請し、社領1万石を寄進しその臣須藤某をして祭官に任じ、人呼んで留守殿といい、その子孫連綿として相継ぎ大宮司となったが斯波氏、最上氏以来、歴代山形城国土安鎮、国家安泰、吉事の宮と称し、特に承安年中(約八百年前)源義経が宝沢村、炭焼藤太の子吉事信高兄弟に嘱して宮殿及び楼門、廻廊、鳥居、玉墻を再営。鎌倉執政北条氏亦之を修造し元弘兵革の後は国司之を営み文禄4年11月(370余年前)山形城主最上義光、社殿を再建し、神殿を修理し、制札を賜い成就院を別当として1、050石を寄進し、更に慶長5年神殿を修理し壮麗を極む。慶安元年7月17日徳川幕府より689石の御朱印社領を賜い、成就院及社人に配当し226石を寺領とせらる。明治維新後社領悉く没収せられたが明治6年9月郷社に加列、明治12年8月13日県社に昇格、終戦後の昭和36年7月1日神社本庁より別表神社に加列せられた。古くからお宮様と尊称せられ、山形市の大半を氏子区域とし、かつて山形の豪商や紅花大尽等が京都、大阪地方へ商用のため上洛の際は途中の交通安全を祈願した奉納の狗犬、夜燈等今に現存し産業交通安全の守護神として崇敬頗る篤く、摂社城輪神社は山形市内の最古の社殿で随神楼門(天明元年社人佐藤長太夫寄進と伝えている)は技法偉容共に県内随一と称せられ、共に有形文化財として指定を受けている。 |
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