| 由緒 | 飛木稲荷神社の草創は、旧幕社寺奉行書また明治2年の神社明細書には、応仁2年(1468)とある。言い伝えによると、「鎌倉覆滅して、北条氏の一門遁れて此地に転住し、稲荷大神を奉祀せり。」といわれている。鎌倉幕府が倒れたのは、元弘3年(1333)のことである。また、別に、「大昔のある時、どこからか暴風雨の際いちょうの枝が飛んできて、この地に刺さり、いつの間にか亭亭とそびえたので時の人がこれは異状のことであるとして稲荷神社を祀った。」と伝えている。その後、「古来、請地七竃と称し、7戸の氏神であった。」と伝えられ、水田地帯であった請地村の鎮守の神(氏神)としての歴史を歩み始めることになる。請地の地名は、浮地の意であり、利根川がデルタ地帯(三角州)をつくって陸地化していく過程を示すことばである。この利根川は現在の隅田川であり、本流は江戸時代、徳川家康による水路変更の治水工事により、銚子を河口とする今の姿になった。区内にはその他にも隅田(洲田)、寺島、小村井(小村江)など多数みられ、陸地化していく様子がよみとれる。氏子区域は、多少の変遷をたどり、現在、押上1丁目仲町会、押上2丁目町会、押上南町会、 押上西和町会、押上3丁目伸成町会、押上文花町会、京島2丁目協和町会、京島2丁目町会、京島3丁目中央町会、京島3丁目北町会、八広北町会の計11町会であり、都営文花団地一帯も氏子区域に含まれる。ともあれ、飛木稲荷神社の歴史は、御神木のいちょうと共にあり、「南葛飾郡神社要覧」(昭和7年発行)には、「樹齢数百年を算する霊木にして神社の往古を證するに足り郡内唯一の大木なり。飛木稲荷の名は実に此神木より発し、亭亭郡木を抜きて天空を摩する偉観を讃美せるに因るなり」と紹介している。このようにして、御神木のいちょうは、現在も墨田区一の大木であり、震災・戦災にも耐え、繁茂して悠久の命を伝えている。 |
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