御由緒
慶長2年(1597)波多野一族が創建したと伝える。
社名は、明治元年(1868)太政官布告により、「八王子社」から「八柱社」に改めた。
明和5年(1768)の大洪水で鳥居が流失した時、米津橋に漂着していた「社額」を引揚げて復元した。村中の流行病が治ったと、伝える口碑は、
八王子社の御神徳をよく伝承している。
社蔵品は、八王子社、牛頭天社、と記されている棟札を初め、法主大照院(当山派修験僧)松平伝七郎と読める棟札等多数ある。
他に、村歌舞伎に使った襖絵8本、大引幕、棒の手の道具等も保存している。
襖絵の図柄は、「若松に鶴」で元治元年の作、長島岸翠「竹谷松平家臣、現蒲郡市」が、画遊して帰国の途中、下の切、鈴木新左ェ門家に逗留して画いたと伝える。
大引幕は、明治35年(1902)創建300年祭と、明治天皇の銀婚式を奉祝し、大歌舞伎を奉納するに際し二代目鈴木五平が寄贈した。図柄は「那須与一扇的」である。
棒の手は尾張融和流の分派「無想流」を愛知郡傍示本より伝授し、宮口合宿の「殿」を守る村として、大正6年(1917)まで続いた。
御祭神
《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳命,《配》天穂日命,天津彦根命,活津彦根命,熊野久須日命 田心比売命,市寸島比売命,奥津島比売命
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