御由緒《松平(徳川)氏の創建》 社伝によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一宮鹽竈(しおがま)六所明神を勧請し、 松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。 《隠居神様》 往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、 同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。 《六所神社の再建奉加帳》 大永7年(1527)12月野火により社殿が全焼しました。この社殿再建のために、松平宗家5代長親(道閲)は嫡子6代信忠と共に、 「当社大明神は、当国守護の霊廟、郡村加護の明神なり、就中(なかんずく)、松平一等の氏神、先祖崇敬の霊社なり・・・」と、 六所神社造営奉加帳(豊田市指定文化財)を松平一門宛に出しています。 《徳川家康生誕・岡崎城主》 徳川家康が天文11年(1542)12月、岡崎城にて生誕のとき、当六所神社に礼拝がなされたといいます。 家康が岡崎城主となった、永禄年間(1558〜1569)岡崎城に近い高宮村(現在の岡崎市明大寺町)の六所神社へ、 当社の御祭神6柱の内、3柱の神が勧請遷座されました。文化年間「松平家文書」の中に、「六所神社は永禄年中に、 高宮村の六所神社へ衣冠束帯(いかんそくたい)の神像3体、地蔵尊3体を遷御した」と記されております。 《徳川家康初穂料を奉献》 慶長7年(1602)家康は、高月院の祖廟参詣の節に、当社へ20石の初穂料を献じています。 《県社に昇格》 明治6年(1873)、六所明神を「六所神社」と改称し、社格を郷社に列せられ、大正11年(1922)9月26日、県社に列せられました。 ◆六所山・鳳来寺山・猿投山と共に三河三霊山の一つと言われ、海抜611mの山頂に六所神社の上宮があります。その山麗の西側に下宮があり、 道路を挟んだ境内には、豊田市指定文化財「六所神社舞台」があります。この舞台は、明治5年(1872)に建てられ、 明治中期以前の二重仕掛けの構造をよくとどめています。二重仕掛けとは、梁の一部がきれていて、舞台の一部が登場者を載せて上下するものです。 舞台の用材には六所山産の杉、桧、栗、モミなどの大木を使用しています。山からの搬出は、近隣の氏子が多数出て、岩角に突き当たって動かなくなると、 岩を削っておろしたといわれております。また、舞台の前の芝も当時そのままの芝居見物用のものです。
御由緒2松平親氏公が永和3年8月19日の勧請にして家康公より高20石給はる 大給縫殿頭より祭資料として玄米2石4斗を明治3年迄受く大正11年9月26日縣社に昇格せらる。 『愛知県神社要覧』(愛知県神職会 昭和11(1936)年発行)より抜粋 御祭神《主》猿田彦命,事勝国勝長狭神,岐神,《配》日本武尊