御由緒
勧請年月未詳
仁壽元年10月従五位下を賜
延喜式内参河官社26社の1
國内神名帳□□正四位上賜
明治5年3月郷社に列せらる
御由緒2
名鉄豊田駅より稲武行きバスで野口下車、飯田街道を東へ300米程行った北側の、やや奥まった山間の地点に鎮座します。江戸時代は
「足助庄野口村に存す。今天神と称す。」とあり、天神社でした。
祭神豊斟渟命は、古事記伝の解釈によれば、一名豊国主尊といわれ、豊かに富み足りた国の意味をあらわす神としています。この神は天地創造の始めの頃、
浮脂の如く漂っていたものが、次第に固まる状態の中から生まれた神と古事記は書いています。
この神社の創建は明らかではないですが、隣接する増慶寺が推古7年(599)創建といわれます。従って野神社は、それ以前の創建と推定されます。
祭神は、文化13年頃はご神体の鏡をそのまま御祭神としており、特定の神名はつけられていませんでした。明治初年頃人格神豊斟渟尊にあてられ、
以降そのまま現在に至ってます。
この中切町は、豊田市の外れ足助町との境界に近く、飯田街道が山中を一筋通り、民家の数もまばらで、現在氏子が48戸と言われているので、
往古はどのくらいの戸数があったのか、恐らく人里離れたところで、ひっそりと暮らした集団であろうと思われます。
神社はいかにも古社らしく鳥居をくぐり台風後の荒れた道を登ると拝殿にたどりつく。本殿は一段高くなっています。拝殿・本殿共に古びており、
歴史の重さがひしひしと感じられる風情でした。
『愛知の式内社とその周辺』(小林春夫著、式内社顕彰会、平成13年5月)215頁より
御祭神 《主》豊斟渟命
|