御由緒
三重県桑名市大字江場字神戸鎮座神館神社はもと伊勢大神宮の御領たりし桑名神戸の御館神明社にして神宮とは極めて深き御縁故を有せらるる所の神社なり、
抑も神戸とは土地人民を挙げて神宮の御領たりしものの謂にして平安朝中期の編纂にかかる延喜式の内の大神宮式によれば
当時神宮の神戸は其郡を挙げて神宮の神戸たりし神三郡即ち伊勢の南部に位せる度会、多気、飯野の三郡以外伊勢、大和、伊賀、志摩、尾張、参河、遠江の7ヶ国に亘り353戸に及べり
而して其内伊勢に於ける桑名郡の神戸は五戸を算せり、此等の神宮の神戸には本神戸と新神戸とあり、本神戸とは皇大神宮御鎮座の古へに於て各地の国造などが貢進せるものにして、
新神戸とは其の以後の寄進にかかるものを称せり、桑名神戸は即ち本神戸にして垂仁天皇の御宇皇女倭姫命が大御神の鎮まり坐さむ大宮地を覓めて各地を巡り坐しし時、
桑名の野代の宮に於て伊勢国造の遠祖建夷方が進め奉りし所なり、桑名神戸と神宮との関係実に斯の如く古く、
従て其神戸の神税徴納其他一般事務を執行したる所謂神館の地に奉祀し来れる本社も亦極めて悠久の御由緒を有し給ふことを知るべきなり
本社は近世に至り若宮の御社号を以て一般に称へ奉ることとなりたれど、
正しくは神館神明宮神館明神等と称へ奉りしこと桑名誌、桑名名所図会、桑名名所志、勢桑見聞略抄、桑名雑誌等の諸書に依りて知らるるのみならず、
今神社に所蔵する天文22年刀工村正奉納自作刀剱の銘、享保五年本殿御造営棟札銘、宝暦4年奉納鰐口銘、明和5年寄進神楽釜銘、及び額面の文字等にも明記する所なり、
而して桑名誌に別所、蓮華寺、稗田、上野、太夫、西方、東野、本願寺、江場、赤須賀、矢田、大貝洲、小貝洲、大福、安永、和泉、福江の17村に互る地域を総て神戸岡と称すと云い又桑名府名勝志に
安永、大福、江場三村の田畠に神戸 寺前、御墓、釈迦堂、十王堂安養院等の古字名を存せる由を記せり、依て思うに桑名神戸の中心地は安永、大福、江場に亘る地域なりしが如く考へ得らるるなり
猶ほ桑名神戸の位置を立証すべきものは旧大福田寺の所在是なり、大福田寺は今桑名東方にあれど、
もとは市の南端大福村の地にありしものにて江戸時代初期萬治5年に至りて今の地に移建せりと云ふ其寺名を大福田寺と称せるもの亦蓋し地名大福に因れるなるべ
し此の寺の草創年代に就ては今同寺に蔵する国宝文亀元年沙門叡 の勧進帳に後宇多天皇の御宇額田部実澄が大神宮の神託により忍性菩薩と共に之を建つと云へり
而して此の勧進帳の首に「請特 十方檀越御助成造立勢州桑名郡神戸郷大福田寺並に本尊祈天下泰平国土豊饒朝儀安全諸民快楽之状」とあるにより大福附近の地が当時桑名神戸の内にありしこと明瞭なりとす、
なほ桑名神戸が額田部実澄の祖先門鎌の開発するところなることも亦勧進帳に記せり、今桑名郡の西南端に在良村額田あり、
是れ和名抄の所謂桑名郡の額田郷の地にして延喜式内なる額田神社も亦此の地に坐せり、
要するに額田部氏は大和より来りて早く此の地に土着し後東下して今の桑名市の南方に移り桑名神戸の地を開拓せるものにして大福田寺は即ち其の氏寺たりしものなるべし
桑名郡の地は皇大神御巡幸の御順路に当り、美濃国の伊久良河宮より南下して伊勢国に入り坐し、桑名郡野代宮に暫し奉斉せられ給ひしこと、
皇大神宮儀式帳及び倭姫命世祀に載せて隠れなき御事なるが諸国に於ける御巡行の聖跡が多く神戸等の地と密接の関係あるにより御坐清直翁は
今の桑名市内なる本社神館神社の地を以て当年に於ける桑名野代宮の聖跡なりとし、又延喜神名式なる野志里神社の古来の社地も亦本社の地なりと断じ、
栗田寛博士の神祇志料及び内務省編纂にかかる特選神名牒等皆之を襲へり、然れば本社は啻に桑名神戸の神館神社たるに止らず、皇大神巡幸聖蹟桑名野代宮御宮地にして、
又式内野志里神社の御社地なり、茲に於て本社の御由緒は更に数段の重きを加へ給ふものと謂ふべきなり 本社の宝物中に獅子頭2頭あり、是れ往古御頭舞に用ひしものにして製作頗る古撲、
銘に「益田庄内平朝臣野部次郎左衛門尉実吉(花押)永享7年乙卯12月3日」とあり、
今桑名市内に入れる太夫村は所謂伊勢太神楽と称して各地を巡行せる獅子舞の発祥地なるが其巡業の際は必ず本社に参拝し、
本社の社頭より出発するを例とせりと云ふ、而して本社にかくの如き永享在銘の古獅子頭を蔵するに依て推せば此地方に於ける御頭舞の起源が室町時代以前に遡るものたることを知るなり。
御祭神
《主》天照皇大神 豊受大神、倭姫命、大山祇神、火産霊神
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