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神社史研究会(会長:皇學館大学白山芳太郎教授)が制作しています。
基本システム制作:皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究部会
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主催者:現代日本社会学部教授 新田均  顧問:落合直人
問合せ先: 神社史研究会 副会長:落合直人

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神社ID7705神社コード0
神社名若八幡神社フリガナわかはちまんじんじゃ
通称名フリガナ
郵便番号8250004鎮座地福岡県田川市夏吉1636
氏子地域
電話番号FAX携帯電話
主な祭典祭典日
特殊神事
お知らせ
旧社格式内社御朱印
祈祷出張祭神葬祭
結婚式宝物館その他
宮司名(本務/兼務)連絡先
主祭神《主》応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、神夏磯姫命、小笠原忠真
フリガナ
御神徳
由緒五柱の神様をお祭りしています。譽田天皇(第十五代應神天皇)大鷦鷯天皇(第十六代仁徳天皇)息長足姫尊(神功皇后)地主神(夏吉産土神、神夏磯姫命)輝徳神社(小笠原初代藩主忠真公)。應神天皇は神功皇后が新羅をお討ちになった年12月12日、筑前国粕屋郡蚊田村(今の宇美町)でお生まれになりました。御名を譽田別の尊と申します。まだお生まれになられる前に神々のおつげにより、天皇の御位を授けられた事から、胎中天皇とも申し上げるのです。八幡様と申し上げるのは、新羅の軍勢から襲撃されるのを防ぐ為に、海岸近くの香椎から、蚊田村におうつりになって、産家のあたりに旗を数十本立てて、厳重に警固されている事をお示しになったとの事です。(此の産家のあとに宇美八幡宮がまつられました。)又一説に宇佐に神としてご出現になった時、大貞の薦池から美しい八重雲が空を覆ったことから八幡の神と申し上げるのだとも云われています。此の天皇が御年61歳の御時、御母君がお亡くなりになりました。軽嶋明宮で正月丁亥の日に皇位にお即きになられました。天皇は幼時より大変かしこくて、実際に政事をみそなわす時になっては、国民を深い愛情を以てお治めになられたので、国民こぞって聖の帝とお慕い申し上げたのです。此の天皇には、男女合わせて、20人の御子がありました。その中で大鷦鷯尊(仁徳天皇)が天皇の御位におつきになったのです。應神天皇は在位40年の年2月申の日、軽嶋明宮でおかくれになりました。天下の萬民は、自分の父母が亡くなった様に、奥山に住む人、磯辺の人々も皆歎き悲しまない人はなかったと云う事です。御遺体は河内の国古市譽田村にお葬り申し上げました。その御陵のほとりに神社を建て、譽田八幡宮と申し上げます。(社領200石、神官10人神宮寺の僧侶10人、将軍家が主催の祭礼が厳重に行われ、大阪城代が参詣されます。)雄略天皇(第二十一代)の御代9年の秋7月河内の国からの申告が日本書紀に載っています。即ち「河内の国飛鳥戸郡の人、田邊史伯孫の娘は、古市郡の人、書首加龍の妻です。伯孫は孫が生まれた事を聞いて、聟の家によろこびを云に往き、月夜に蓬累丘の譽田の御陵の下を帰って居りますと赤い立派な馬に騎った人に逢いました。その馬はある時は龍の様に、ある時は鴻の様に駆けました。又馬の項は豊かで四肢もよく発達しています。伯孫は近附いて視てこの馬が欲しいと思いました。そこで自分の乗っている斑青の馬に鞭をうって、頭を揃え轡を並べました。所が赤い馬はするするとぬけ出してちりの様に小さくなったかと思うとあっと云う間に見えなくなって了いました。伯孫の斑青の馬は足がおそくて、追いつく事が出来ません。その赤い駿馬にのった人は、伯孫が欲しがっているのを知って、馬を停めて取り換えて別れました。伯孫は良い馬を得たと大変よろこび、厩に入れ、鞍をとき秣をやって眠りました。所が明くる朝、赤馬は土の馬に変わっていたのです。伯孫は不思議な事があるものだと思い、譽田の御陵まで来て見ると、自分の馬が土馬の間に居るではありませんか。そこで取り換えた土馬の列に戻しました。」と。これは應神天皇が明宮で崩御されて、153年後の事です。この様なふしぎな事があったと云う事は、八幡宮が伊勢皇大神宮と共に日本の2ヶ所のみたまやとして朝廷から重くまつられるめでたいしるしと云ふべきです。それから又10七年経って宇佐に神として御出現になったのです。和気清麿が勅使として参向した時に神様の御威光のすさまじかった事は世の人が誰でも知っている事です。当社御鎭座のわけは、夏羽の亡霊の崇りで村民がいろいろ悩み、毎年死亡する者が多かったので八幡宮を祭って、夏羽の亡霊のたたりを鎮めたのです。若とは世間でまだどこでも祭っていない前に祭るので、宇佐宮の若宮と云う意味であると云っています。又は二の御殿に仁徳天皇(八幡宮の若様)をお祭りしているので若と云うとも云います。中津原の鶴岡宮をむかし若宮八幡宮ととなえたのは、鎌倉の鶴岡宮から御神霊を頂いて来たので、鎌倉の若宮と云うのでとなえるのだと云います。宇佐から御勧請申し上げた初めは、香春岳の中腹に御鎭座と云い傳えています。今でも地名が香春岳に伝わっています。その後、夏羽の住んでいた屋敷跡が樹木が大きく繁って景色もよかったので、そこに社をたて、お池には藤がさし覆っていたので藤池と呼びました。その後、比処が平地であって、田に出来ると云うので、社地を若葉山の麓(今の大宮司屋敷です)に移しました。是は保元年間とも云われています。そこから只今の社地に移られたのは慶長年間(慶長13)です。もともと当村では比叡神社産土神であるはずです。日吉社でなくて、比叡社と云う社名でお祭りしているのは、只今の京都より昔、即ち京が奈良以前からの事であります。昔から此の若葉山をお治めになっていたのです。八幡宮をおまつりしたので比叡社は疎末にあつかわれる様になったのだと思います。仁徳天皇は應神天皇の第四の皇子です。母は仲姫命と云って五百城入彦皇子の御孫です。天皇は幼い頃より御聡明で、お顔立ちも大変おきれいでした。御成人なされては、仁愛の御心深く、天下あげて聖の帝と仰ぎました。御弟の宇治稚郎子を天皇にと云う父の帝の詔を深くお守りになり、人臣の位に即こうとなさいましたが、宇治稚郎子もまた聖であって、自殺をなさってまで天位を兄君に譲られたのでやむをえず、天皇になられたのです。人民に対し御仁愛殊に深く、3年もの間税を免除され、御殿の屋根がそこなはれても修繕せず、只只人民の苦しみを救おうとばかりでした。人民の生活が楽になったのをごらんになっては、「高屋に登りてみれば煙立つ、民のかまどはにぎはいにけり」とお詠みになって大変有難い大御心でございました。当社を香春岳の鎮守と仰いだのは、保元のころ、後に太政大臣になった平清盛公が太宰大貮(太宰府の次官)だった時、家臣の越中の次郎盛次に命じて、鬼ヶ城を香春岳に築かせて守らせた時萬民撫育の聖帝と深くご尊敬になっての事と云う事です。こう云う事から代々の城主が当社を産土神となさったのでした。原田家系図に記載がありますので途中ですが、さし入れます。『保元2年、安藝守平清盛太宰大貮として九州二嶋を都督す。之により家の子越中次郎盛次に命じて一城を香春岳に築かしめて、鬼ヶ城と名づく。同年8月当国守護として、仁徳帝を平野より迎へまつり、八幡宮同殿に祭る。萬民撫育の聖帝なり。始め(原田)種廣女色にふけり、(原田本家の)種直の不興を蒙る。太宰府に来たりて清盛に昵近す。この故に清盛公種廣をして、祭祀を司どらしむ。以上、若八幡神社勧請の由来を原田家の系譜から紹介しましたが、平野神社とは京都市北区平野宮本町に鎭座する旧官幣大社です。桓武天皇が都を京都に遷された時に、天皇の母君高野新笠姫の祖神、大和の田村の今木神を遷し祀った社です。新笠姫は百済の聖明王の子孫で今木神も百済の神様です。又此の平野神社は古来八つの氏が氏神として尊んだとされています。即ち今木神は源氏、久度神は平氏、古開神は高階氏、比・神は大江氏、以上四柱の神が本殿、更に摂社の県社が本殿に並んで鎭座し、天穂日命が祭神とされ、中原、清原、菅原、大枝氏が氏神として尊崇しました。殊に平氏は桓武
駐車場有無台数トイレ
記載神功皇后
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