由緒 | 本村は、天喜2年の開発であって村名を若林といい、戸数18戸即ち産土神として八幡宮を勧請し奉り、社殿を逢妻川の辺なる小高い丘に建てて斉き祀ったという。 然して、元永年間、寛喜年間修覆を加え、永仁6年社殿を改築し、天平11年屋根替えをした。文安3年千葉三十郎(後、都築三十郎)邁如上人の請によって、石川政康等と共に武州都築から移住した。 都築一党崇神の念厚く、八幡宮の社殿を改造し、社地を調え、又祭事を厳にした。明応の頃本田四郎左衛門忠親来り、字上野山に城を築きここに居たが、忠親八幡宮を崇敬し、明応5年4月社殿の大修繕をした。 天正9年8月都築半右衛門氏神八幡宮の社殿を建てたが、寛永10年惣氏子協力して社殿を改築した。 寛文年間、稲垣信濃守、代官を参拝させ、荘厳な祭典を執行させた。
元禄10年本殿を修覆し、享保5年5月代官及び村役人10名八幡宮の社額を奉納した。 明和3年領主稲垣越前守社殿を修覆させ、天明5年拝殿を造営し透塀を造立し、安永5年都築利左衛門石灯籠一基を寄進した。神社境内は本田四郎左衛門、稲垣信濃守、同淡路守の寄進による。 慶応元年水野出羽守(大浜)松平備前守(小牧)稲垣藤九郎三家の封土となったが例祭には何れも代官を参拝させたという。明治5年10月に村社に列し、同39年神饌幣帛料供進の神社に指定された。
例祭日は、明治維新前は旧暦8月15日であったが、明治の中頃まで9月12日となり後に10月16日に改められた。
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