由緒 | 由緒 明暦元年(1655)3月、摂津国堺の住吉大社から勧請したと伝えるが、万治元年または承応元年ともいう。実は承応元年に浜崎で船持の者が商売のため、大阪へ上った節、俄かに難風が起こり、一命危き体のときに住吉宮へ立願し、神力をもって御助けいただければ、長州萩浜崎の船持中、一心に勧請し奉ると祈ったところ心願相かない、萩船分のみ難風をしのぎ助ったので、翌日、堺の住吉社へ参社して御礼を申し上げ、社務取次の田中右衛門太夫へ面会し、右立案の次第を申し上げたところ、社務方にも奇特に思し召され、御神徳のありがたきをもって勧請の儀を納得されたが、御作法もあろうから、いったん帰国してこの由を藩に願い、公許を得た上でまた参るよう申し合わせて帰国し、右の次第を浜崎代官役井上忠左衛門まで申し出たところ、さっそく当職所へ申し上げられ、当職榎本遠江も願いの筋、神妙の至りである、殿様大事の御船中もあるので、勧請苦しからずとの御沙汰があって、鶴江の恵比須の森に鎮座3カ年、ついで浜崎の只今の所へ万治元年(1658)に社殿を建立したのである。その後、歴代藩主の崇敬ことのほか篤く、たびたび社地の拝領を許され、祭典はいうに及ばず、式年造営のとど、寄付金・寄進物の供進枚挙にいとまがない。また当社は御船倉・御客屋両役所の御抱えで、防長両国18裁判一統の諸祈祷を仰せ付けられ、武将の社参、遠近男女の参詣繁く、祭礼の殷盛なことは比類がない。祭礼は万治2年(1659)に始まったが、寛文6年(1666)から地元浜崎を除く萩市中本町28町のうち数町が交代で祭事を担当し、そも引き請けの町(住吉町または通り町という)では踊車を出し、家ごとに店頭を作り物で飾った。高張提灯・鳥居・太鼓・幡・踊車聖(飾物)・引棒・御船・神輿の神幸があった。昭和7年(1932)県社に昇格した。 |
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