由緒 | 本社はよりとも公御治世に御沙汰ありて、山城国雄(石清水)より勧請その後大内氏の信仰につき、永和元年、永録3年と再度に御神領寄付相成たるに、宝暦年中本社火災に罹り神宝、録記、旧記等を焼失、建立の年月日勧請の由来不明ならざれども録記とも覚しき破本中に明応八年巳末5月弐拾弐日とある。付記 宇須能峯上領付近は4方大立山で下は葦の大沼であった。中でも柳の沼というのが最も大きな沼であり、土地の農民は大立山を伐採し沼を埋め田地を造り、そこへ神様をお祭りして氏神といたしました。神様は天照皇大神、蛭子命であり最初神様を宇須の上に奉安しておりました。或年大風大雨に土地一帯は川となり濁流ごうごうと逆巻き実に凄じき有様、そのとき宇須の上に鎮座まします御祭神は不思議にも流れませんでした。それを万代嘉六という人が見つけ濁流の去った後その地を宇須と名付け其処へ沖田懸の井手を堰いた、今もって之を宇須井手の堰と呼んでいる。その堰の川下に珍山と言う処がありその処へ神様を御遷座申し上げ宇須能峯と称えて新開鎮守の氏神と致しました。その後、よりとも公の時山城国雄徳山(石清水)より八幡宮を勧請申し上げ社殿を岩畔の森へ造営されました。此が上領八幡宮であります。そのかたわらへ宇須能峯社をお迎へ遷座し奉ったのが今の相殿であります。此の岩畔の森を大元の森ともいい神様を大本の神と申し伝へて居りますのも新開鎮守の意味でありませう。又珍山の麓とに穴があってこれを昔から縁故穴と申します。此の穴の清水を14日の未明に汲み取り精米1斗を炊き糊として桶に入れ15日の朝6っ時桶のまま神に奉る。又御神食は米の生粉を丸く握生茄子を小さく切り塩にもみ同日昼9っ時土器に盛り奉るのが旧例であります。 |
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