由緒 | 寛和元年(985)、平原の台に夜毎に光るものがあり里人が怪しんでいた。或る日村の古老に「畑の中に霊石あり、これ八幡宮なり、この地に祀るべし。」という神のお告げがあり、掘り起こしたところ、神功皇后が神に誓われた御産石が出てきたという。同年9月12日、社殿をその地、岡の原(現在の宇部商業高校付近)に造営し、この霊石を八幡の神として祀ったのである。のち、寛正6年(1466)、社殿が今の平原の地に移された。慶安3年(1650)社殿が再建され、現在、際波と沖の旦地区の氏神となっている。また、際波の由来には、次の2説がある。1説は、上古仲哀天皇、筑紫に熊襲征伐のため御船にて行幸なし給いしに、西風烈しく吹きて、御船豊浦の津に到り難く、此所に繋船し、三筒男神を祀り、順風を祈り給うに、俄に順風に変りければ、天皇曰く「はや波は和波になりて来るぞ。」と歓び給いしより、此所を来和波という。関係地名、洗川(垢離をなし給う所)、岸の旗(供奉の御船の旗などを建て並べし所)、鏡ヶ窪(鏡を磨き清め給いし所)。2説は、この村沖海上干潟の地、追々新開になりたれども、昔は此の地の山辺まで海浜にて波打ち際なれば号して際波という。 |
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