由緒 | 当社は、厚東氏の建立した神社では最古の社であり、以来厚東十四郷の宗廟(先社のみたまや)として、厚東氏・大内氏・毛利氏の三代を通じて、信奉のあつかった神社である。天正5年(1577)、本神社の第41代神主、白石重政が書出した、恒石八幡宮縁起を要約すると、「厚東氏第2代武基が、都から海路帰国の際、備後国常石の浦(現在の広島県沼隈町)に停泊した時、霊夢にみちびかれて、海中より八幡宮の御神体を奉じ、帰国後棚井村の御形(現在の宇部市大字棚井字岡)の地に、仮殿を建てて御神体を移し、白石権守に預けた。その後、厚東氏の居館、お東館の鬼門にあたる亀山の地(現在の場所)に、新たに神殿を建立して遷宮し、領内の神官や僧侶を多数集めて、9月14日から15日まで、神事、放生会を行い、厚東十四郷の宗廟とした。この行事には各村々からいろいろな神鉾や神具が奉納され、祭礼、御神幸は毎年盛大に行われ、祭りは繁昌している。」とある。創建された年代については諸説があるが、厚東氏二代武基は、天禄年間頃(970年頃)の人物であることからすると、創建はこの時代であろうと、厚東郷土史研究会では思料している。恒石八幡宮に関連する文書で最古のものは、承安3年(1173)に書かれた「吉見村なら原の畠地を、所みやこ大夫に永代充行う」というものがある。この吉見という地名が文献にあるのは、これが最古のものではなかろうかと思われる。厚東氏の歴代は、崇敬の念があつく、代々この神社を手厚く保護した。特に長門国守護大名でもあった、14代武実は、宇佐八幡宮から三本の神幣を奉じ、宇佐神宮の大宮司を招き大祓をした。また長府の一ノ宮、二ノ宮神社に、恒石八幡宮の神事、放生会を伝えこれを加勢した。この武実の時代に、足利尊氏も御幣を奉納して、武運長久を祈ったという。厚東氏滅亡後、大内氏は厚東氏同様に、この八幡宮を信奉し、保護した。特に大内弘世は神殿その他末社に至るまで、残らず再建した。ついで毛利氏の時代になって、毛利輝元は天正3年(1575)、「先例に任せて下知を加うべし」と裁許の文書を出している。この輝元が認可した文書の中に、「恒石八幡宮の祭りに店を出す商人は、かり屋銭(地代)を出せ」と書かれてある。このためか、昭和30年頃までは、地元の青年団が祭りのときには、各露店から、なにがしかのかり屋銭を集めていた。現在の社殿は明治15年再建されたもので、かつての神域は、近郷で最古の鎮守の森にふさわしく、昭和20年頃までは、老松や椎の大木が境内に覆い茂っていた。 |
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