由緒 | 本宮は孝謙天皇、天平勝宝3年厚東武忠の4世白松太夫武綱公豊前国宇佐八幡宮の御分霊を迎え社を建て賀保庄の鎮守とす。初めは古尾に奉斎ありしを天福元年大内15世多々良朝臣の時南北に分ち南は吉沢に社を建て南の宮とし、北は須田村に分かちて北の宮とせり。其後應永15年祝融の災に罹り、本社、末社、神宝等悉く鳥有に帰せりしも、同17年領家、地頭、公文等の三家当国の守護大内左京太夫盛見朝臣の命を奉じ再建の事を謀り、神殿、幣殿、舞殿、若宮まで造営を終えた。然れども樓門尚缺けたりしを遺憾とし永録12年造営の事を創め元亀2年に至り、之れ亦全く成就せり。爾来年月を経て應長十年項社頭大いに廃頽。頻年疫病流行し、五穀就せず村人大いに恐慌し、社殿造修の事、国庁に謀りしも世上尚喧擾の時なりしかば空しく20有余年を経て寛永14年に至り復旧の項を奏せり。現今の社殿大概其時の建築なり。樓門は享保5年(宝暦年中とも云う)の再建なり。本宮は往昔、南北分社以来、永年岐波村一円の氏神なりしも、明治19年岐波村東西2ヶ村に分離せり。現今は、西岐波区一円の氏神なり。例祭は、古来陰暦8月15日を定日とし、14日は夕刻より夜渡祭を行い、古式の湯立行事ありしも、今は中絶し明治43年陰暦廃止に伴い、祭日を陽暦10月2日に改め、10月1日には慣例に依る夜渡祭を行い、2日には神幸祭、3日には流鏑馬、競馬の賑いあり。神幸祭は古例に則り、2日午後正面参道下御旅所に渡御、尚近年神役、神賑等日曜日との要望多く昭和55年より10月第2土曜・日曜日と定めた。 |
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