由緒 | 糸米の木戸神社に祭られている木戸孝允公は天保4年(1833)萩に生まれ、桂小五郎と呼ばれ、萩校明倫館に学びてその鷹爪を顯し、やがて吉田松陰と共に尊皇の精神や兵学を論じ、又21才の時、江戸に出て江戸3道場の1である斉藤弥九郎に神道無念流の剣道を修業し、塾頭となった。孝允公が文武両道の達人と云われるのもそのためである。しかも孝允公は終生一度も刀を抜いて、人を殺傷したことはなかったと云われている。後に江川太郎左エ門に洋式の兵術を学び、やがて長州出身の志士、高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文を育て、土佐の坂本龍馬等と共に尊皇攘夷、王政復古、版籍奉還、廃藩置県による近代2本の誕生にその生涯を捧げ、薩藩の西郷隆盛、大久保利通と共に明治維新の3傑と云われた。孝允公は若き日、京都の芸妓幾松(後の松子夫人)と意気投合し、禁門の変により、長藩全て京を退去したる後も、孝允公は1人京に留り、二条大橋の下にひそんでいたとき、幾松は竹の皮に包んだ握り飯を渡したことは有名で、糸米に新居を構え(現在の竹原邸)藩の政治堂(現県庁の地)に馬上姿で通はれたのである。必ずしも長い間ではないが糸米生活においても村民や子弟の将来を思い、孝允公の旧宅や山林をすべて村民に与え、子弟教育の資にせよという遺言あり、(当今の奨学金制度の元祖勧学祭として今に伝う)村民はこの後世に遺るすばらしい徳行を慕い、邸の南側に小祠と恩徳碑を建て毎年1回村民あげて、手作りの重箱と徳利を下げて境内に集まり酒肴をかわして大いに談笑し、村民唯一の交流親睦の場となった。昭和52年孝允公の百年祭を迎え奉賛会を創設し、木戸神社1帯を山口の誇る史跡とし、また、春祭りを観光山口の1助にもとの願いを込めて、市民町民あげての協力により市内まれに見る盛典であった。なお、春祭りには町内夫人部手作りの幾松弁当、野点の茶席、子供相撲、ことに公縁の剣道大会は市内最大規模の大会として定着している。 |
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