由緒 | 一 往古、この土地を大股(オオマタ)と称しておりましたが、当時は鎮守の神として祭るべき神社がありませんでした。田畠の稔りも悪く、狐狸が作物を荒らし、年々流行病が絶えず里人は大いに難儀を続けておりました。たまたまその頃、九州地方の戦乱をさけて、大股の里へ移り住んできていた、日津喜麻呂豊国宿禰が守護神を奉祭しておりましたのでこの里の有力者、下津五郎万正好という方が土地の鎮守の神として申し請け下津令に社を建て(現在、通称踊り場)初めて祭礼が行われました。すなわち天武天皇の御代白鳳13年秋9月(1287年前)のことでありました。これがわが繁枝神社の創建の由来であります。(豊国宿禰の子孫は、その後代々神社に奉仕して現在にいたっております) 二 繁枝神社のご祭神は、応神天皇、神功皇后、厳島神社大明神、住吉大明神他の神様方であります。その年、大股村で男子が出生した12軒がお鏡餅、御はなびら餅(おせんべい)を調製し、神に供え神事に奉仕いたしました。これが現在迄続いている当屋制度のはじまりであります。 三 爾来、台道地区の鎮守として尊崇されておりましたが、後世、旧国道以北は八幡宮(小俣)のご守護されるところとなりました。建久2年(780年前)には社殿を下津令から現在の繁枝の地へお移しいたしております。足利時代、時の藩主大内義興公の崇敬特に篤く、遂に公直筆の「額」を賜っております。(これらのことは、境内の石碑(亀の上)古文書などに記録されております。)わがふるさとは、産土神のご守護によって年々繁栄を続け、土地も広がり(神社創建の頃の海岸線は上り熊、下津令木床、嶽条のあたりであったと推定される)氏子も増し、産業も発展して今日に至り、なお悠久の未来に向かって隆昌を続けようとしているのであります。 |
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