由緒 | 切畑の玉祖神社は、かって樹齢300年以上の松の大木に囲まれた神々しい神域であったが松くい虫のため全部を失い、現在は昭和55年2月、苗木2100本を植樹した桧林の中に鎮座されている。御祭神は周防国一の宮玉祖神社の御分霊で、天孫降臨に供奉された五伴諸神の一柱の天玉屋命である。切畑は一の宮玉祖神社の氏子区域であったが、祭礼の節口論の末獅子面を持ち帰り祀られたとされている。旧山陽道のすぐ北に一の宮から切畑に通じる山路がある。今その山路を押地峠と呼んでいるが、かって切畑の氏子が獅子面を持ち帰る際、峠の松の木陰に奉安して右田衆の追手を逸した処で、お獅子峠と呼ばれたとの口碑がある。「風土注進安」によると 切畑玉祖大明神 御根帳入 神主 高橋隼人 祭神 天玉屋命、伊弉諾命、伊弉冊命 當社勧請年月日不相知、大崎村壱の宮ヲ勧請仕り、若宮大明神ト號候由、其地ヲ古若宮ト云。(現在農地改革により宮から離れ田圃。)後當所江移シ申候事。とあるが、明治28年の「切畑玉祖神社取調書」によると、本社ハ勧請ノ年月確ナラズト雖モ、古神輿ノ調製年月ヲ以テ推考スルニ葢シ應永3年以前ノ勧請ナルベシ、柳モ当村ハ住昔佐波郡右田村国幣社一の宮玉祖神社ノ氏子ナリシモ、地理遠隔不便ヲ感ジ、(中略)社殿ヲ建築シ該社ヲ勧請セシモノニテ、其社地ハ今ノ社地ヨリ南ニ当リル古若宮ト称スル処ナリシ由口碑ニ存セリ。其後殿将ニ朽ントスルニ及ビ、貞享2年2月(1685)今の社馬場筋ノ辺ニ移シ建ツ。其要棟礼ニ記セリ。其後復タ宝暦11年7月(1761)現在ノ社殿再建ス。とあり、別項ニ「創立ノ由緒ニ依り文明18年(1486)以前創立ノ神社タル事明ナリ」と記されている。これは昭和54年(575年祭)の神社記録とほぼ一致する。次に昭和64年4月1日防府市文化財に指定された洪鐘がある。総高94糎、口径54.5糎大きくはないが均整のとれた、美しい鐘である。銘文によると「玉祖若宮大明神は一の宮玉祖大明神を勧請し崇敬するところで、宝殿、神器は備わっていれど洪鐘に欠けていた。この年大早魃がつづき穀物がすべて枯れようとしていた。村人は神に雨を祈り、そのたび毎に恵の雨が沛然と降った。そこでみんなで洪鐘を鋳て神恩に報い、かつ国家の安康を祝うことにした。時に享保14年(1729)のことである。」とある。この洪鐘が太平洋戦争時のきびしい金属回収令をまぬがれ現存し得たのは、神社北西方400米ばかりの丘陵地にあった切畑分教場に移され、報知用として使用されていたためである。次に美しい鯉が102・30匹悠悠と泳いでいる放生池がある。これは江戸時代の三勤交代に氏子中が荷運び等に出た労金が貯えられていたのと、有志各位の寄進によって明治7年築庭されたものだが水が貯えられず、から池となっていたのを株式会社青木建設が新幹線工事記念として底築資材を寄贈氏子各位の奉仕によって昭和47年10月完成した。昭和のはじめ青年団によって植えられたつつじと。奉献された八基の庭石燈籠と、毎年手入れされる樹木の美しい、素晴らしい庭園である。更に参道両土手に植えられた、20数本の桜樹もずいぶん古くみごとで、年々歳々美しい桜花、きれいな葉桜が目を楽しませてくれる。この美しい自然の中で、玉祖神社を崇敬し神恵を受けながら、氏子1人1人が、失ったら取りかえすことのできない自然と文化財を保護し守っている。 |
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