由緒 | 山口県防府市大字田島字打越3578 古書には玉祖をタマノオヤノとかタマオヤノと訓じていて、延喜式神名帳(延長5年、927)に記載された本社である周防国一ノ宮玉祖神社をタマノオヤノカミノミヤシロと訓じている。中関の玉祖神社は、江戸時代の『防長風土注進案』に要害村の玉祖社と記載されているが、明治の改正以後は玉祖神社(たまのおやじんじゃ)に統一された。地元では古くから「タマッサマ」という呼称で親しまれている。祭神 玉祖命(たまのおやのみこと)をお祀りしている。玉祖命は玉造連(たますりむらじ)の祖神で、天皇陛下が皇位継承でお引継ぎになられる三種神器(さんしゅのしんぎ)の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた神で、別の名を櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉命(はあかるたまのみこと)豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)とも称す。由緒・沿革 天照大神の天岩戸隠(あめのいわやどがくれ)の神事で、玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後、天孫瓊々杵尊が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として、国土統治の御創業を補佐されたことが古事記、日本書紀に載っているが、社伝では、玉祖命は後に大崎の地に座して中国地方を平定された後、右田の大崎で神避りましたという。一ノ宮玉祖神社の北方約500メ-トルにある「玉の岩屋」は玉祖命の御墓所と伝えられている。田島は古くから一ノ宮の氏子であったようで、建武2年(1335)9月の大内弘幸の玉祖神社神祠重建目録に、一ノ宮の社領として田嶋庄十五町が寄進されている。また、一ノ宮の江戸時代の文書の中に次のような記録もある。読みやすく書替えると、八月の御祭礼、古くは15日の月の出より御祖社(一ノ宮の摂社)において舞楽が始まりまた釣垂の遊びがあり、釣舟は田嶋浦(中浦)より三艘を出すのが例で、この舟で神官が鮮魚を釣ってお供えした。この事を「釣垂神事〕(つりたれのしんじ)と申し伝えているこの釣舟はいつとなく中絶した。そのかわりに田嶋より御祭礼の時には神輿の加勢が来るようになった・・。と、一ノ宮の氏子を離れ、中関の玉祖神社が独立した氏神様になってから以後も、本社との関係が続いていることがわかる。釣垂神事は昭和15年に復活され、今日まで斎行されている。社伝では長禄元年(1457)8月、一ノ宮祭礼の時に、氏子同志が口論となり、大道切畑の氏子は獅子頭を持帰り、田嶋の氏子は神鉾を持帰り、岡城に玉祖神社を創建したという。大崎より帰る途中、華城の大塚で汐待ちをし、赤石へ渡って岡城まで帰り、鉾を岩の上に立てて衆議した。この岩を「鉾立岩」(ほこたていわ)と言い、近年まで現在の中関郵便局北方の田の中にあったと言う。その近くに石祠が祀られていたが、この祠(ほこら)は現在岡城側の第一鳥居の所へ移設されている。田島の氏子が汐待ちをした華城の大塚には、その場所が神聖なところであるとして、永正3年(1507)に玉祖社が建立された。棟札、諸記録等から中関玉祖神社の歴史を見ると、長禄元年(1457)8月15日、岡城(水源地附近と言われている)に玉祖神社を創建する。文正2年(応仁元年・1467)2月3日、現在地へ遷座天正18年(1587)2月16日、神殿造替 寛永6年(1629)3月12日、神殿造替 寛文8年(1668)2月、神殿造替 宝永2年(1705)木原八郎左衛門が鳥居建立 享保5年(1720)3月、神殿造替 寛延3年(1750)手水鉢設置 宝暦8年(1758)6月、中殿、拝殿造替 安永6年(1777)石段造営 寛政元年(1789)江口弥兵衛が燈籠建立 同6年(1794)倉重藤九郎が燈籠建立 享和3年(1803)氏子中にて燈籠建立 文化5年(1808)工藤坂五郎夫妻が燈籠建立 文政8年(1825)渋武宇平次が狛犬奉納 天保5年(1834)8月14日、神殿造替 嘉永6年(1853)7月19日、神殿造替、吉武與吉夫妻が燈籠建立 安政4年(1857)8月17日より22日まで、御鎮座400年式年大祭斎行 明治6年(1873)10月、玉祖神社が郷社に列せられる。明治16年(1883)1月23日、全社殿造替 明治27年(1894)7月30日、午前11時、全社殿焼失、翌28年8月19日、全社殿を再建、これを記念して吉武清治郎が鳥居を建立明治34年(1901)白井嘉蔵が石柱建立 明治39年(1906)5月、鎮座450年式年大祭斎行、この年、神饌所、社務所を新築 大正6年(1917)社務所造替 大正9年(1920)本殿屋根を銅板に葺替 昭和6年(1931)9月、鎮座475年式年大祭斎行 |
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