由緒 | 明治6年8月5日開祖福本ユキ女鹿野町に生る。大正3年2月吉日ユキ女伏見稲荷神社に参拝、御分霊を奉持し自宅の神棚に奉斎、神の啓示と霊験をさずかる。大正10年7月吉日ユキ女鹿野下市鎮座の伏見稲荷大明神を合祀す。昭和2年春渋川字中村(鹿野上1306番地)の地に9尺2間の小社を建立し、本式に加持祈祷を始む。昭和4年春渋川字中村唐谷(鹿野上162番地)の地に社殿を建立多くの人々の信仰を集む。昭和9年8月7日開祖ユキ女4男福本義雄教主により鹿野町字東、天神山の地に鹿野稲荷神社を建立、初代総代、森弘利助、内富房衛門、倉増忠蔵。昭和18年3月開祖福本ユキ女73歳を以って神去る。昭和26年天神山の地に新しく拝殿を建築。昭和28年同地に新しく御神殿を建築。昭和28年4月吉日30周年奉祝大祭を斎行。昭和36年教主福本義雄氏の発案により、岩城巻三郎、角保太郎、福田国蔵、山崎利作、竹本善助の各総代と相謀り大鳥居建立のことを議り、昭和40年秋落成。昭和48年11月吉日50周年式年大祭を斎行。昭和49年8月14日教主福本義雄64歳を以って神去る。昭和49年8月15日福本徳夫鹿野稲荷神社宮司として就任。昭和57年12月6日神社本庁の御承認を賜り山口県神社庁所属の神社法人周防鹿野稲荷神社として認定昇格。昭和57年12月15日神社本庁より当社の宮司を拝命。昭和58年7月12日宮司拝命奉職報告祭。昭和58年7月13日より15日まで御鎮座60周年奉祝記念大祭斎行。開祖福本ユキ女は、鹿野町渋川字中村の農家福本利助、ハル夫婦の7人兄弟の次女として、明治6年8月5日、山の間に蜩の声の啼き渡る早朝、この世に呱呱の声を上げた。ユキ女は幼少の頃から甚だしく病弱で、小児喘息の病に昼夜を置かず苦しんでいた。この幼気ないユキ女の姿をみて、母ハルはお大師様に日夜ユキ女の御加護を願い、春秋には鹿野町内の八十八ヵ所を廻りに廻ってユキ女の病気の平癒をひたすら祈ったのである。ユキ女が5、6歳のころであったろうか、漸く喘の病が収まり、健康になり初めたのを喜んで母ハルは、この幼い児の手を取って、山の間に雪の消え初める3月の初めの頃にお礼参りに札所を廻った。これがユキ女を信仰の道に引き入れる最初の出来事であった。ユキ女は、母の大きい手に導かれ、或時は背中に負われつつ道端の大師様の前に母に習っては跼りね野仏のやさしい顔容を見上げては言い知れぬ懐かしさの様なものを抱いたのであった。こうしてユキ女のお大師信仰が始まり、春秋の八十八ヵ所廻りも欠かすことなく行われるようになったのであるが、20数歳の頃から折々に激しい耳鳴りに襲われるようになった。最初の頃は、それも月に1度か2度位であったけれども、年が経つにつれて日に数度となく耳鳴りに襲われた。それは、遠雷の轟にも似て穏やかに過ぎていくかと思うと鼓膜が今にも張り裂けるかと思われる程に凄じい響きとなって頭の中を走り廻り、目を開いていることすら出来ない時もあった。そうした時ユキ女はただただお大師様にすがり、ひたすらにお大師様に祈りを込めた。ユキ女は、昼となく夜となく襲い来る耳鳴りに耐え難くなると家の奥の暗い1間に座っては南大師遍照金剛の名号を唱え続けた。そしうして、その耳鳴りは仏前に座って祈りを捧げている間は、不思議なことに潮の引く如くに遠ざかっていくのであった。この耳鳴りは、ユキ女が江藤氏の許に嫁いで後も続いたようで、34、5歳の頃になると激しい耳鳴りの音の中に人声の如きものが聞こえ初め、仏前に座ると目の中に白色光が揺れ動いて仏の啓示の如きものが表われるようになった。ユキ女は、こうした現象に襲われる度にしばしば自分自身が狂って終ったのではないかと思った。明治の年が暮れて大正に年が改まった或る日のことであった。渋川の山峡を雪が霏々して吹雪いていた。森羅万象は深い夜の帳の中に静まりかえっていた。ユキ女も亦安らかな眠りに落ちていたのであるが、夜半中に轟然として襲ってきた耳鳴りの響きに混じって、妙なる楽の音が聞こえ世にも不思議な天来の声を聞いた。「ユキよ、ユキよ、起きて来い、ワシについて来い」その声は、耳鳴りの底に細く小さく恰も鈴の音の如く澄んで聞こえていたが、やがて次第に大きくなり耳を蓋わんばかりに体中に響き渡った。床の上に起き上がったユキ女は、戸口に走り眼を見開いて立っていると降りしきる雪の中に白色光の白く輝く玉が揺れ動きつつ遠ざかって行くのであつた。ユキ女は、その白光に吸い寄せられる如くに思わず知らず走り出していた。そうして走り続ける間中「ユキよ来い、ユキよ来い」と言う声が鳴り響き、吹雪の空をユキ女を連れ去るかのように白光を放って白い玉が走るのであった。ユキ女は、眼が眩み息が喘ぎ足を止めようとしても玉をめがけて足が、体が前へ前へと走り続けた、幾時過ぎたであろうか、降り積もった雪の上に正気を取り戻したユキ女は、聳え立つ雪の山頂に立っていた。朝の日差しが山頂の木の間の雪に輝いて七色の光彩を放ち、正に此の世の物とは思えない荘厳さをたたえていた。何時の間にか耳鳴りの音は止み、澄み渡った天空の彼方より「ユキ女、ユキ女、吾はイナリノ大明神ナリ」と言う声が紺碧の大空に響き渡った。ユキ女は、降り積もった雪の上に寒さを忘れてひれ伏し、涙ながらに妙にして荘厳な神の声を再び聞うと乞い願ったが、山も森もしんとして声なく、今の今まで止んでいた雪が亦吹雪始めた。余りの不思議さに自分自身を振り返る暇もないままにユキ女は家路を急いだ。既に夜は明け放ち、夫も5人の子供たちも早々と朝の食事を終わり、ユキ女の朝餉の膳が台所の隅にただ一つぽつんと据えられていた。ユキ女は、雪と濡れた着物を着替え、お膳の前に坐ろうとした。正にその時誰が置いたとも知れない一巻の巻物が膳の前にあるのに気付いて、思わず一巻の巻物を棒持して押し広げてみると墨痕淋漓として「稲荷大明神」と書かれたお宣託が光芒を放って輝いていた。これを見たユキ女の口から「アア有難やイナリの大明神」という言葉が声となってほとばしり出て止まないのであった。以来、ユキ女は精神錯乱状態に落ち入り、来る日も来る日も夜となく昼となく「稲荷大明神」のお託宣を前に寝食を忘れて何事かブツブツと口の中で呟いているかと思うと、叩頭を幾度となく続けつつ祈願の如き言葉を身を震わせ声を上げて叫ぶのであった。或時は激ち流れる雪の谷川に身を沈めては神を念じた。ユキ女は、そうすまいと心の中ではしきりに思うのであったが、体が動き口が動き「有難や有難やイナリの大明神」幾万遍となく唱えては激流に身を清め、何処ともなく村中を走り廻った。家族は言うに及ばず村人等もユキ女が完全に狂って終ったものとして、終には警察にまで届け出るに至った。鹿野町字東に三所神社社司をしていた宮本英士氏はこの話を聞いて、代々社家に伝わっている秘伝の修法によって、その狂気を癒し正気を取戻さむものと、その家族等の断っての乞いを入れて、自ら福本家に趨き、3日2夜の五穀断ちの秘法を極めて荒々しい修法の技を行った。それは修法の終わる日の夕刻の事であった。宮本英士氏がユキ女の頭上に万心の力をふり絞って大喝一声御神幣を降り下ろすや、ユキ女は、否や振り乱した髪の間から、かっと両眼を見開いて「吾は稲 |
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