由緒 | 山口県下松市大字河内鎮座。祭神は天之御中主尊にして多々良姓琳聖太子の創建たり人皇三十三代推古天皇の御宇9月18日都濃郡鷲頭の庄青柳の1松樹に降臨ましまし霊異を輝し玉ひ宣託してのたまはく我は天之御中主尊なり今より3年ならずして百済国の王子来朝すべし其の擁護のためにここに天降りしなりしと国司其由を朝廷に奏問す百済国璋明王の第3子琳聖太子1夜夢見らく東海に国あり日本と云う神聖統を垂れ聖天子国を治め玉ひ民風淳厚にして且つ汝が信ずる所の神あり以て之くべしと夢さめて太子渡来の来の意切なり時に吉備の羽島使者として百済国王に謁し神明降臨の由を奏して太子を迎へんとす太子歓喜措く能はず即ち龍頭の船を艤し推古天皇5年丁子巳の春3月2日周防国鞠府の浜に着船し玉ふ時に勅使秦の川勝吉敷郡問田村に仮宮を建てて移し鎮め奉り同秋太子都濃郡青柳浦桂木山に社殿を営み9月9日太子参籠ありて之を奉斎し玉ふ降臨の日なる9月18日を祭日とし鷲頭の庄の氏神として崇敬し奉り(後世之を北辰妙見尊)と称へ降臨松の由来を以て青柳浦を改めて降松と称し更に下松と改む桂木山は今の宮の洲山を云ふ桂木山内に井あり「あ伽井」と言ふ北辰妙見社の御供水なり後世此の井を「豊井」と云ふ推古天皇11年癸巳の秋高鹿垣の山頂に社殿を建立し同17年己巳鷲頭山上に上宮中宮の建立ありて高鹿垣及桂木山の宮を遷し玉ふ今の上宮中宮之なり桂木山の麓に下宮ありて上中宮の神霊を勧請し奉るこれ一般信者をして参拝に便せんがためなり大内18世弘世公下宮を鷲頭山麓赤阪に建立せられ7坊を置く元和年中徳山城主毛利就隆公赤阪の宮を今の若宮の地に遷し玉ふ大内7世の孫正恒卿鷲頭山に参籠し山中水乏しきに苦しみ東方の谷に到りて和歌を詠せられければ清水湧き出たるを以て和歌水の浴と称し今尚神社の御供水とす此の下流を御手洗川と云う大内茂村卿北辰妙見社を山口氷上山に勧請す7州の大守多々良義弘防、長、石、豊及内野合戦の賞とし紀泉両国和州宇多郡を賜り武運長久の宿願によりて応永元年甲戌鷲頭山へ五重塔並仁王門を新たに建立せらる当時の社奉行は左波六郎隆貞なり多々良家滅亡の後鷲頭山既に廃せんとす時に大江元就公尼子退治の宿願により永禄年間社頭を修復す当時の社奉行は大庭加賀守平賢兼なりき慶長13年2月6日夜火災あり上宮中宮の拝殿仁王門五重塔七坊等尽く焼失せり唯中宮本社のみ其災を免れたり中宮は創建以来重建すること5度現今の建立は大永3年癸未大内義興公にして社奉行は深野平左衛門多々良興房なりき社域は俗塵を払ふて海抜1200尺の高嶺に位し境内は古木欝蒼として階磴を擁し参者一度此神域に入るや森厳の気自ら人をして粛然たらしむ明治3年改めて降松神社とす。明治45年一大公園を設け名つけて偕楽園と云ふ春は梅桜つつじ妍を競ひ秋は紅葉錦を飾り加ふる眺望絶佳遠く筑豊の淡煙を望み近く柳湾鼓海の帆影を眺む |
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