由緒 | 田布施波野府天満宮の由来は、醍醐天皇(60代目天皇)の延喜元年(西暦901)菅原道真右大臣が左大臣藤原時平におとしいれられて、京の都から遥か西の果ての太宰府に向かわれますとき、柳井、余田、唐戸迫門(カラトノセト)を経て波野府の中嶋(現在地)に舟を繋がれ、多くの小島が点在し、岩城山麓、阿児山、連台寺、唐戸迫門八幡山、土生江崎の漁村、善光院の森、天王山、野寺観音、岩城山、砂田の森、名蔵山竹尾山、龍泉寺、麻郷山等、無際の風光に長い旅の疲れを解されると共に太宰府までの安らかな旅路を祈られました。そのご休憩中に波野府の沢の辺りより去っていく雁の1行をご覧になって「こかれよる波野府の浦にいる雁の」の1首を詠まれたが、下の句を失って惜しいことであるとあります。菅公が自作のお姿像を何某かにお与えになって筑紫をさしてお下りになった。太宰府での3年の歳月の後、延喜3年2月25日、御年59才で神となられた。寛弘(西暦1004~1011)の頃菅原道真公ゆかりの地中嶋に聖廟を創始、お姿像と菅公御本地仏である十一面観音尊像(恵心僧都作と伝えられる)を安置したのが波野府天満宮の始めと書れています。以来毎年10月15日を祭典として近郷はもとより遠郷の人々の信仰が厚くなり、遂には熊毛郡上関御宰判の総鎮守となり、年がたつにしたがって威徳は四海に輝いたとあります。建久(西暦1190~1198)の頃には、10余丁にわたる蛭子堂、名蔵山、二本松、砂田の森、南江尻を巡る御輿の巡幸があって、これを五社の天神と呼んだとあります。天正年(1573~1591毛利輝元の時代)に干潟を開いて(田地とする)村となり、長田と川を隔てて波野田布施と称し田布施波野府天神宮となるとあります。元禄10年(1697)4月には村の宝樹寺山の木を伐り出して、初めて鳥居が建立されました。享保4年(1719)春国朝に祭日の改正を訴え願い出て、菅公が昇天神となられた2月25日に従って、その日より3月4日までとしたとあります。同年11月石鳥居と改め室津浦より二隻並んだ船で運ぶ途中黄昏となり、太嶋の河口に帰り暗夜河流を遡る時に、かこが誤って汀洲に船をかけてどうすることも出来なくなったとき、忽然と衣冠の人灯火数10挑して船縁に乗り、その明りは恰も白昼の如くとなり洲より船を引くことができ、常に船の通るところを照し一本松の岸辺に到ると、お姿は燈火と共に一瞬の間に見えなくなった。天満神の威徳を感じた狐狸の為した所ではないだろうかと人々挙げて不思議としたとあります。 |
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