由緒 | 堀河天皇の寛治七年 万民安泰 五穀豊饒の為め、帝は京都の賀茂神社に宮中武徳殿の競馬の行事を奉納して執行されることになりました。その御料として全国から22ケ所の荘園を寄進されましたが伊保庄はその内の一荘であります。荘園の役人と共に多くの社人たちが下って当社を奉斉し、伊保庄五ケ村の氏神として崇敬を聚めたのであります。以来京の御本社と変りなく1年33度の祭典も丁寧に執行されました。京都に於ても五月五日の競馬の節会には、20ケ荘の馬20頭によって、2頭宛組合わせて10番の競馬が行われて現在に続いて居ります。京都の賀茂神社とゆかりの深い社は、中国筋では播州室津の賀茂神社とこの社が最も都に知られているので、都人たちが附近通行の際は懐かしさによく参詣されました。明応九年足利10代将軍義植が下向の途中柳井津に滞溜した節も、同行の三条左大臣公頼、近衛中将二条良豊、持明院中納言基規の三卿が、足を運んで参詣された記録が伝えられています。この社には賀茂神の外に、神武天皇の御弟三毛入野命がお祭りしてあります。三毛入野命は南に見える大座山の山上にあった、国弊を以て祭られる延喜式内社熊毛神社の祭神であります。この社は鎮座以来2000年近くも経っているので、途中奉仕の氏人を失って荒廃した為当社に合祭したものであります。従って当社の祭神は 別雷命 玉依姫命 三毛入野命 の3柱で、玉依姫命は別雷命の御母神に亘らせられます。この地の産土神として鎮まりまして殆ど九百年、明治6年には郷社に列せられました。その御神徳としては、賀茂神は代々の帝も国に大難ある毎に祈願を篭められた万民安康五穀豊饒の守り神であり、熊毛神は神武天皇御東征の途中、大暴風に遭って船隊覆滅せんとする時、身を犠牲にして海中に身を投じ、全軍の安泰を計られた交通の守護神であります。社殿は天保12年に拝殿が再建され、神殿は明治32年再建遷座が行われました。その結構造作彫刻は近郷の名工と謳われた、大島郡の門井宗吉の主宰する処で、近世の名作として識者の三嘆を惜しまぬものであります。 |
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