由緒 | 源平の戦の時、壇の浦の戦に入水された安徳天皇の御母賢礼門院にお仕えした少納言高尾は、嘉永元年(1182)11月お暇をあたえられたので、自らの名を「みね」と改め、郷里因幡国へかえらんものと供に腰元の女中ひとりをつれて京をたちいでたが、その途中供の女中は病にかかり死んでしまったので、いまは是非なくひとり旅をつづけていた。足弱な女の身とて自らも病を発し悩みに悩むうち悪人にとらえられ、遊女に売られてしまった。たまたま京の商用をおえて陸奥の国に帰る金売吉次がそれを知って同情、高尾を救い出して立ち去ったが、高尾は吉次の親切が忘れられず、いま一度あいたいものと、因州の道をとってかえし、吉次のあとをおって野州都賀郡の稲葉の里まで辿りついたのである。稲葉の里に逗留しているとの風のたよりによろこんで急ぎ来てみれば、吉次はすでにこの世の人ではなかった。高尾はこの地まであとを慕って来て遇い得なかった不幸を歎きながら、吉次の墓を築いてねんごろに供養をした。これまでの長途の旅の疲れと運命の幾変転に疲労も一度に出たものか、高尾は病気になり、旅立ちもならず、この地の地名は稲葉の里、自分の生れた故郷も因幡の国、同じいなばを地名とするところに在るも故郷へ帰りたると同じこととあきらめて、ふるさとの道のしるべも絶はてて ちぎるいなばの名こそつらけれ と詠んだという。かくて親切な村人たちに看とられながら死んでいったのであるが、その時自分の氏素姓をくわしく物語り錦の袋に入れた懐剣と錦のふくさ包みを取り出して「この懐剣はこの家に伝うべし、またこのふくさ包みは大内裏の御宝の一品なり、この宝物はこの家にて持つべきものにあらざる故に、埋めてわが在所、因幡国峰の高尾大明神を祀りてほし。」と、いいのこしてこときれた。時に文治4年(1188)9月25日、高尾40才の時だったという。里人はその遺言にしたがって服紗包みを土中に埋め、文治5年9月29日に高尾大明神を勧請しておまつりした。のちどんなに疫病流行して国中大さわぎする時でも、この里のものだけは巫神・修験者を頼み神楽を奏しておまつりするので、1人も疫病にかからないという。 |
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