由緒 | 当社の創建は古く、後花園天皇の嘉吉元年(1441)、京都北野天満宮より勧請せられたと伝えられ、享保15年(1730)卜部兼敬より「宗源宣旨」を授けられておる。天満宮鎮座の縁起については不詳であるが、嘉吉元年は時あたかも結城合戦により結城落城の年である。史書によれば結城七郎氏朝が持氏の遺児を擁して幕府勢10万を相手とし1年余りに亘り抗戦、嘉吉元年4月16日落城せりとあり、この合戦に幕府勢は日本半国の兵力を動員して結城を中心とする小地域に投入したといわれ、高椅神社の社殿も戦火にあったと伝えられておるところから、家は焼かれ食糧は徴発され、労務に徴用されるなど、当地方の民衆の蒙った惨禍は、はかり知れないものだったろうと推定される。したがって鎮守さまをお祀りするような余裕はなかったのではなかろうか。否、このような時こそ心のよりどころとしての鎮守さまが求められたのだろう、とも考えられる。支配者を失ったこの地方の人々は、地域の有力者を中心に団結し自立社会をつくり出す必要に迫られ、団結の拠点として、民心のよりどころとして鎮守さまの勧請へと発展したのではなかろうか。それは宏大な社域でもなく、雅やかな社殿でもない。平和を愛し郷土を愛する人々の、ひたすらに神のご加護を希う清らかな心の結集だったと思う。そして平和な、文化の香り高い郷土づくりを願う心が「学問の祖神菅原大神」の勧請となったのではなかろうか。想いを遠く昔に馳せるとき、当社の崇高な創建精神が窺われる。 |
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