由緒 | 今より1200年前、延暦年間、大納言左大将坂上田村麿東夷遠征伐の時に、武甕槌大神に戦勝遠祈り給い、大同年間に至り左大将藤原朝臣、室貞卿東夷の平定に、大神の神徳なりと、常野奥の三洲に、五十三神の鹿島神社を創建して、奉斉の誠を致そうと立願し、各地に清浄の地を定め、本社はその一社として創建されたと云う。常陸佐竹氏と那須家の戦いあり、神殿、神宝、古記録すべて灰塵に帰して神威衰えた。当郷の先候大関安碩公佐竹氏の地券を得、当郷を領し時に常陸の先規の寄附任せて永く神せんを献る。天正年中、領主大関美作守高増公崇敬して、社殿を再建し、神領20石余寄附し、毎年例祭には領主の代拝があり、大関家に世々修復する。慶長5年8月、神殿を修復し、承応3年、大関土佐守増親公本殿拝殿、神楽殿、廻廊、瑞がき華表、神宮寺、鳥居の御造営を行ない、明治まで13回の修復を行ない現在に至る。本社は昔、鹿島大明神と称したが、天明6年5月27日、神祇官より大神宮号を授けられ、明治5年、神格改定により神社と改め、明治40年、指定村社となる。祭礼は昔、7月7日、9月19日、現在は例祭4月9、10日、大祭2月19日、8月7日、11月29日である。神宮寺は昔、鹿島山上にあり昆砂門堂があり、十一面観世音、不動昆砂門の三仏、鐘楼があったと云う。又、南1町の所に大鳥居、それより南20町の所に大鳥居があったと云う。 |
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