由緒 | 国造(後の郡長に当る)の官職にあって、名を韋提と云った。位階は追大壱(天武天皇の朝に定められた四十八階の中で、此の位は今日の正六位に当る)で姓(家柄の尊卑をあらわすもので、直の姓は多く国造に賜った)は直であった。大化の改新により、那須国が郡に改められたので、永昌元年(唐の則天武后の時の年号で、我が朝持統天皇の3年に当る)4月、飛鳥浄御原大宮則ち持統天皇より那須郡長に任命された。そうして韋提は文武天皇の4年(約1300年前)正月2日に死去された。依って子息の意斯麻呂が新羅の帰化人(此の碑文の作者)と協力して、此の墓碑を建てた。韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の渡来人をいたわって芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。それで韋提の歿後、其の恩願を受けた渡来人等が、此の頌徳碑を立てた。碑文の中には、大学者が研究しても解しかねる隠語の文句(銘夏より助坤まで)があり、又碑文の書体は専門家が見て中国の六朝、主として北魏時代の書風で非常に勝れたものだというから、学者で、かつ、能筆の人が文を書いたのである。碑の発見 日本三古碑中(本碑と、上野国多古碑、陸前国多賀城碑)一番古く、一番由緒の深い此の碑が、何時の頃よりか草むらの中に埋れて、世に知る人もなかった。唯、里民は、碑の頭上に笠石があるので、此の石を降したり冠せたりして、雨乞をしたのに効験があったと云う。然るに貞享4年、水戸黄門光圀が馬頭町梅が平の大金重貞から、該碑の話を聞かれ、保全の恩召を以て、元禄4年に御堂を建立し、現在の如く安置し奉ったものである。明治44年、早く国宝に指定され、昭和27年、新国宝となった。 |
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