由緒 | 平治の乱起りし時、須藤三郎(須藤宗資)、源義朝の軍に従って平清盛の軍と戦いしが敗退したので神田城(現在の小川町)に居住する事が出来なくなった。兄資房と甲斐国(山梨県)稲積の庄(今の村落に当るのか)に隠遁(かくれる)し其処の鎮守、稲積大明神に那須(下野の国)帰参を祈願した処、明神の受納(おゆるし)があったので、永万元(1165)年、勅免(許可)を戴き下野神田城に戻ることが出来た。然し兄資房は、那須家をつぐ意志が無かったので弟宗資が継ぎ神田城より稲積城(永万元年の築城という)に移った。更に城を修築して、稲積大明神を甲斐国より勧請(すすんで願う)し現在の地に鎮座した。此の大明神は、もともと那須家並びに稲積城の守護神として勧請したもので、以後代々の城主が大変崇敬されて、墨印の地(祭田があったと聞く)を賜った。祭神 大己貴命 大国主神の別名にして、天下を作り治め国土の平定、民衆の幸福に功業があった。少彦名命(すくなひこなのかみ) 大国主神と力を合せ、兄弟を約して国造りされた神。後世医薬の神としても崇敬された。稲倉魂命 食物を主宰する神。以上三神 変遷 応永25年(1418)、那須資重(沢村五郎)烏山に築城して、稲積城より移った。稲積城が永万元年(1165)の築城とせば253年間難攻不落の名城として、威厳を四方に誇示した訳になる。廃城となるや稲積大明神(神社)は、わが下境並びに民人の守護神と成りて鎮座された。住民は下境の平安を初め財宝増殖、病気平癒、五穀豊饒、天変息災、火難退除等遍く神功にお縋り、永き歳月と共に崇敬して今日に至った。稲積の神徳は、わが村のみならず近郷まで潤い輝き御社に参拝する者すくなくなかったとの説。拝殿天井には、寸毫の隙き無き程に神願を絵額(えま)に託して、奉納されて居る事実は、正に神功の厚かりしを証佐するものである。稲積大明神の神徳永えに不滅、その加護の元、村民一体、泰平の御世の瑞祥を祈願する。 |
---|