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詳細情報
神社ID/コード | 1390 | 0 | |||
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神社名/通称 | 木幡神社 | ||||
(ふりがな) | きばたじんじゃ | ||||
郵便番号 | 鎮座地 | 栃木県矢板市木幡1194 | |||
氏子地域 | |||||
電話番号 | FAX | 携帯電話 | |||
主な祭典 | 祭典日 | ||||
特殊神事 | |||||
お知らせ | |||||
旧社格 | 式内社 | 御朱印 | |||
祈祷 | 出張祭 | 神葬祭 | |||
結婚式 | 宝物館 | その他 | |||
宮司名 | (本務/兼務) | 連絡先 | |||
主祭神 | 《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊,《配》事代主命,田心姫命,大己貴命 | ||||
フリガナ | |||||
御神徳 | |||||
由緒 | 桓武天皇延暦年間、坂上田村麻呂在京の砌り故有りて山城国宇治郡許波多神社を信ずる事年久し。同10辛未年大伴弟磨等と蝦夷追討の命を蒙る。因って彼の社に参詣し追討の功顕はさば一社を建立し奉らんことを祈誓す。進んで下野国塩谷郡峯村の地(現在神社の裏側の地)に宿陣す、遠江国住人高島信保信房兄弟も又従って功あり。同14乙亥年田村麻呂凱旋の砌り再び此の村に陣する。地形、四神相応するを見此の地神慮にも叶うべく宿願を果すは此の地なりと思い、遂に峯村の地へ本社を建立し、山城国許波多神社を遷す。困って峯村を改め木幡村と為す。平城天皇大同弐年今の地に遷して新たに建立す。又田村麻呂東夷の面を彫刻し赤鶴の面と号す、之を当神社へ奉納する。旱魃の時本社より辰巳の方内川淵と言う淵に、この面を浸すときは西山忽然と雲を起し雨を降らす故に旱魃の時は今に於ても遠近の村々から降面を乞祈う者多し。その後朱雀天皇の御宇、天慶参年当国の大椽藤原秀郷、平貞盛と将門を誅罰する砌り宇都宮神社及び当社へ朝敵征伐の祈願を祈請し給い速かに将門を誅伐す。此の事宣伝し遂に時の朝廷に聞達し宇都宮神社へ勲一等を賜わり当神社へ社領1000石を寄進せらる。この故を以って今に至るも宇都宮神社と当神社と遊行の神事とて11月より12月中子午の日麻芋を蹟まず針機を禁ず。その後御冷泉天皇御宇永承六年六月鎮守府将軍源頼義その子八幡太郎義家朝命を蒙り奥賊安部貞任追討の時当社より十有八町東なる玉取と言う所に宿陣し折、従者加藤景通・藤原頼茂・清原貞広等を召集し当社へ1週間の散斎致斎祈誓す神威空しからず安部一族を悉く討滅し得る右陣所の跡は八幡太郎旗掛の松とて今に現存す。その後御鳥羽天皇建久四年四月頼朝、那須野の原に狩せんとするとき村里狂犬起り民大いに苦しむ右府の率連れ来る処の狩犬も狂犬となる。右府大いにこれを患い彼の犬をして社頭瑞籬に繁ぎ丹精抽して四民の難を救わんことを祈誓する。その赤心神に感応し給うや狂犬忽ち平癒す村里の狂犬も亦順々治る。四民始めて安堵す此の故を以って今に至るまで病犬除けの神霊爾を出すはこの縁由なり。天正18年豊臣秀吉に社領を没収されて以来一時衰退したもようであるが徳川時代に入り、爾後徳川家光当社を崇敬ありて慶安元年8月17日当村内に於いて朱印地200石を寄進し、又日光二荒山神社を相殿に祭りこの時より日光法宮の持となり後明和4亥年2月輪王寺宮執泰同11月4日勅宣を以って神位正一位を賜う。朱印地200石は明治維新に至るまで徳川将軍代々寄進せられた。斯の如く武門武将の崇敬殊に篤く明治3年社格御制定の際郷社に加列せられ明治40年10月神饌弊社帛料供進神社に指定せられ本社及楼門は明治41年8月特別保護建造物に指定さる。文化財保護法施行に伴い昭和25年8月29日附を以って重要文化財に指定せられた。 | ||||
駐車場有無 | 台数 | トイレ | |||
記載 | |||||
最寄駅 | |||||
名所・名物 | |||||
地図 | |||||
HP(主) | 神社写真/HP(副) | ||||
御影 | |||||