由緒 | 往古より下野国河内郡姿川兵庫塚村稲荷神社は、祭神宇迦之魂命にして、人皇第七十代後冷泉天皇御宇建立なり。その後、藤原国綱北の方梅の方、及懐胎十月をへて難産して、諸々にて祈祷せしが医師を呼べども力及ばず、すでに一命危く見し所、右稲荷へ国綱初め家臣の者まで祈誓を立し所不思議なるかや速に安産、玉の如くなる男子出産し幼名を金玉丸と号す。後、宇都宮弥三郎公綱と申せしは此君の事也。京都へ御願の上、安産と号を下し正一位安産稲荷大明神奉号。誠に霊験あらたかにして、四方の人々祈誓をかけたる者はやすやすと安産致し、其の子長久にして疱瘡痲疹を軽く治め給う。依って当初の津村新平飯野栄太郎、飯野勘三郎、綱谷菊三郎、平井清治郎、今泉作左衛門氏等協力して当社に鳥居、幡絵、馬色を奉納し多年初午尚平日午の日は群集をなす由。天正18年12月15日、宇都宮下野前司宗綱の奥方、当社に祈るに枕上に立たせられ神霊によりて神前の白砂を以って大和三笠山の形を作る。夫婦むつみて霊験著し。又神前の白砂を取替えて、立たせる者の居る下に置けば速かに縁を切ると云う。当時兵庫塚の郷は12戸にして、其の後、宇戸田越前守親しく御参拝し、又鹿沼宿伊矢野久平氏より社地を献せられ遠近の信者競ひて寄進す。文化14丑年御本社を建立し、明治4年大政官布告により境内地は第一種官有地に編入さる。明治7年9月兵庫塚惣鎮守社村社に昇格し昭和21年6月30日神社本庁に所属。 |
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