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詳細情報
神社ID/コード | 6443 | 0 | |||
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神社名/通称 | 八幡宮 | ||||
(ふりがな) | はちまんぐう | ||||
郵便番号 | 6960004 | 鎮座地 | 島根県邑智郡川本町川下1044 | ||
氏子地域 | |||||
電話番号 | FAX | 携帯電話 | |||
主な祭典 | 祭典日 | ||||
特殊神事 | |||||
お知らせ | |||||
旧社格 | 式内社 | 御朱印 | |||
祈祷 | 出張祭 | 神葬祭 | |||
結婚式 | 宝物館 | その他 | |||
宮司名 | (本務/兼務) | 連絡先 | |||
主祭神 | 《合》稲倉魂命,市杵島比売命,《主》応神天皇,神功皇后,姫大神 | ||||
フリガナ | |||||
御神徳 | |||||
由緒 | 武明八幡宮は特別な歴史を持つ格式ある古社であります。ここに歴史の一端をふりかえって見ると、大内氏多々良清舟が京都の男山八幡宮(石清水八幡宮)から永承5年3月(西暦1050)三原村降居山(代古屋裏山)に勧請して祀りました。その後大内氏が滅び、小笠原氏の治世となり第5代小笠原長義応安元年(西暦1368)現在の地に社殿を建立し同二年遷宮いたしました。当地はは世にいう南北朝時代であります。それ以後小笠原氏は累代本社に厚い信仰を寄せ、第9代小笠原長弘は寛正3年(西暦1462)小笠原家の永世の氏神と定めました。また天正7年(西暦1579)小笠原長旌、弟元枝両人の発願によって、社名を「武明」(タケアキ)八幡宮と改めたもの、その表れであります。武明八幡宮がこのようにして小笠原領国の中心として信仰を集めたのは、小笠原氏の本拠が川本から三原に移った為であります。しかし小笠原氏と武明八幡宮の繁密な関係は反復常なき戦国時代の主従関係や敵対関係のためにやむない変転がなされます。毛利勢が永禄元年石見に攻め入り、小笠原氏の勢力がそがれたとき小笠原氏の氏神としての最高の権威を領内に及ぼしていた武明八幡宮は毛利の制圧下におかれることになって、いっとき御神体が川本の弓ケ峯八幡宮に移されたことがありました。即ち小笠原氏の拠った温湯城の陥落した永録元年(西暦1558)のことで毛利方は本社の宮司、湯浅氏を廃し川本の三浦氏を宮司に任じ、本社を弓ケ峯八幡宮へ合祠したのであります。それは社家の湯浅氏が小笠原氏の武力の一部を担っていると見られた為で、その後小笠原氏が敗れ毛利氏に臣従するに及んで再び御神体を本社に戻し湯浅氏の宮司も従来通り安堵しました。このことについての毛利本就の書状が保存されています。やがて天正19年小笠原氏が丸山城を去り、武明八幡宮から別れなければならなくなったとき、絶ち難い信仰の思いを神前に残して出雲神西の国易に応じました。郡誌によれば、まもなく慶長18年8月再び本領に帰ることが出来た小笠原長栄は、喜びのあまり本社再興の願文をたて、小笠原一族の顕名、武運を祈願しています。武明八幡宮の神恩を深謝せずにいられなかったのでありましょう。源氏の子孫であるとの小笠原氏の誇り、即ち兵法一道に秀でた武士でありたいとの心の昂揚に武明八幡宮が限りない役割を果たしたのであります。その信仰はそのまま三原にとどまった旧臣が民衆となり引継がれ、やがて江戸時代から、明治、大正にかけて、もはや武の神としてでなく鎮守社として祟敬され、平成の今日に及んでいるのであります。 | ||||
駐車場有無 | 台数 | トイレ | |||
記載 | |||||
最寄駅 | |||||
名所・名物 | |||||
地図 | |||||
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御影 | |||||