由緒 | 本神社は出雲国風土記(733年)に阿利社と記してあり、また延喜式神名帳(927年)には阿利神社と明記してある。いわゆる式内社で由緒古い神社であって古来より高西地区の崇敬神社として崇拝されている。祭神阿遲須枳高日子根命は天下造りたまいし大神(大国主命)と胸形(九州福岡宗像大社)の奥津宮の多紀理姫命との間に生まれ給うた神であり塩冶神社の祭神塩冶古命の親神である。「アジ」は味が良いという意「スキ」は田を耕す農耕器具「タカヒコ」は高く輝く太陽の子「ネノミコト」は物事にねばり強い性格を有する男神を意味する。出雲の国風土記に「高岸の郷、郡家の東北二里なり。所造天下大神の御子阿遲須枳高日子根命、甚く昼夜哭き坐しき。仍りて、その処に高屋を造りて坐させ、即ち高椅を建てて登り降りして養し奉りき。故高崖と云う・神亀三年に字を高岸と改む。」とあり高岸が高西になったものと伝えられている。即ち神の住居されたところにお祀りしたものである。本神社は、もと現在地より北々西約八〇〇米の市民会館西方の地にあったが、明治十五年に故あって現在地(吾郷家の先祖を祀る彈正社の境内)に移遷され、戦後社地を吾郷家より寄進され現在に至る。旧社地を記念し、「延喜式内社阿利神社跡」の石碑が有原中央公園の西北隅に建立されている。 |
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